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期待もしない、希望もない、でも原則は捨てない  イ・クッチョン【前編】/『あなたが輝いていた時』

圧倒的に輝く不滅の光ではなく、短く、小さく、何度も点灯する光の一つひとつが人々に希望をもたらし社会を変えていく――。そう信じてやまない財団法人「ワグル」理事長のイ・ジンスンさんが書いた『あなたが輝いていた時』(文学トンネ)は、彼女が6年間にわたって122人にインタビューし、ハンギョレ新聞で連載した記事の中から、12人分を収録したものです。同人誌『中くらいの友だち』を主宰し、韓国の社会事情にも詳しいライター・翻訳家の伊東順子さんの翻訳でお届けします。

私は彼を「韓国の外傷外科医として最高のスペシャリスト」「アデン湾の英雄」*と呼ばずにおこうと思う。ソマリアの海賊に拉致されたソク・ヘギュン船長を、現地に駆けつけて劇的に救ったドラマ『ゴールデンタイム』や『浪漫ドクター キム・サブ』の実在のモデルとして知られる彼を、新聞とテレビはカリスマ的な国民英雄、天才的な外傷外科医と絶賛する。しかし視聴者の賞賛と喝采は一瞬に過ぎず、彼を抑えつけようとする現実的な壁は圧倒的だった。彼に降り注ぐ「最高」「唯一」といった称賛は、彼を妬む者たちによって時に諸刃の剣ともなった。彼が苦労して築き上げた制度も、自分の利益しか考えない者たちによって、成果を奪い合うための道具となった。イ・クッチョンは「一人抜きん出た英雄」になることを決して望まなかったが、世間は彼を孤独なリングに立たせて、スーパーマンのような活躍を期待し、応援した。残酷なことだ。

2017年9月、2回にわたり水原スウォン亜州アジュ大学病院の京畿キョンギ南部地域重症外傷センターで彼に会った。彼とのインタビューは、夜間当直中の彼が緊急患者の手術や重症患者の診察をする合間合間、わずかな手すきの時間に行われた。初日は明け方の4時、2回目は明け方の5時まで、彼のそばにはりついて聞いた話が、25個の音声ファイルに切れ切れに録音されている。患者のもとに駆けつけて戻ってくるたびに、彼はまるで苦しい戦闘を終えた兵士のように疲れ切っていた。「針を突き刺しても血の一滴すら出そうにない」、そんなカリスマの鎧を脱いだ時、イ・クッチョンの素顔は嵐に巻き込まれた小さな花びらのように危うく見えた。週末も休日もなく36時間連続で仕事をし、わずかな睡眠をとった後にまた36時間連続で仕事をする生活が何年も続いている。その合間に彼が書き留めてきた備忘録には、多くの後悔と挫折が記録されていた。

*2011年1月21日、アデン湾でソマリアの海賊に韓国の貨物船三湖サムホジュエリー号が乗っ取られた事件。韓国海軍による救出作戦が行われ、重症の船長を救ったイ・クッチョンは船を守った船長とともに「アデン湾の英雄」と呼ばれた。

目の前の戦いは途方もなく思えた。誰も知らない戦場で、わずかな兵力とみすぼらしい武器で前進と後退を繰り返さねばならない。そうしてようやく指の関節ひとつ分だけでも進むことができる。その最中にも、生は数えきれないほど死にゆき、わずかな兵力も消耗してしまう。待ち続けることは至難の業であり、私にはじっと我慢し続ける自信はなかった。

(イ・クッチョン、未刊行備忘録より)

彼とのインタビューに当たって、事前に準備した質問などは後回しにした。私自身が彼に聞きたいことより、彼自身がずっと誰かに話したかったことに耳を傾けようと思った。彼を絶望させたこと、彼が心から訴えたいこと、今すぐにでも辞めてしまいたいという気持ちとそれができない心の葛藤、献身的で正直な同僚たちに対する感謝と自責の念について彼は胸の内を明かした。このインタビューは「アデン湾の英雄」イ・クッチョンではなく、血を流しながら不動の鉄壁をよじ登る、生身の人間イ・クッチョンの物語だ。

初めて彼に対面したのは、屋上に上がるエレベーターの前だった。約束では夜の7時に病院の食堂で会う予定だった。

「本当に申し訳ありません。もうすぐ患者が到着するんです。屋上にあるヘリポートに行くところです」

彼は手術着の上に蛍光色のジャンパーを羽織っていた。3~4分後に、消防のヘリコプターが夜空を割くように重症外傷センターの屋上に近づいてきた。待機中の医療チームが移動用のストレッチャーを押して、風を受けながらヘリコプターに向かって走っていった。患者を素早くストレッチャーに移す間、屋上に駆けつけた医師と看護師が患者の容態をチェックする。

「瞳孔が開いています。気管を挿管しました。サチュレーション(動脈血酸素飽和度)60です」
エレベーターの中でイ・クッチョンが患者について尋ねる。
「若い人か?」
「身元はわかりません。オートバイ事故です。警察が現場から財布と携帯を持っていきましたから、御家族には連絡がいっていると思います」

患者はすぐに1階のトラウマベイ(外傷蘇生センター)に運ばれた。重症の外傷患者の診察と検査、手術を同時にできるように設計された場所だ。患者が運び込まれるや壁面のタイムウォッチが時間を刻み始め、医療スタッフ6、7人が張り付いて一糸乱れぬ動きをする。イ・クッチョンが超音波検査をしている間に、他のスタッフはいくつもの点滴をつなぎ、採血をし、レントゲン撮影をした。名前がわからないためカルテに「無名様」と書かれた患者がICUに運ばれていくまでにかかった時間は23分27秒、事故現場から移送されるのにかかった時間は7~8分、合わせて30分余りで処置が終わった計算だ。交通事故や墜落事故、自傷などの重症患者にとっては、事故後1時間が生死を分けるゴールデンタイムとなる。夜8時近くになって、彼は少し遅めの夕食をとることができた。

「EBS 命のゴールデンタイム・運命の1時間――重症外傷センターイ・クッチョン教授」より

ヘリコプターが患者を移送するのを見たのは初めてです。名前も知らない人を助けるためにこんなに必死になる人たちがいるんだと思ったら、なんだか泣きそうになりました。
――話の途中にすみませんが、私のところに来られたのは間違いかもしれません。

彼が私の目を正面から見据えて、スプーンを置いた。困惑した。

何故ですか? 懸命に助けようとしている皆さんを見ると、生命に対しての畏敬の念も持つし……
――とても美しい考えだと思いますが、生命を救うとかなんとか考えていたら、逆に仕事なんか一日たりともできませんよ。「私はこんなに偉大な仕事をしているのに、世間はなぜ私に冷たいのか」って、そう思うんじゃないですか? 医者がヘリコプターに同乗するのに、医療保険の点数は10ウォン〔約1円〕にもなりません。我々には成功報酬的なインセンティブもほとんどないどころか、医療保険が赤字だからと給料を削られたりもするし。ただ仕事だと思っているだけです。私のことをわかっていらっしゃらないようですね。

わかっていないと?
――私がこの程度の人間だということをわかっていないし、いいように考えすぎだと思います。私はこれしかできない人間なんです。病院の外でもクズ、中でもクズ、みんな私のことが嫌いですよ。

なぜ嫌いなんですか?
――うるさいから。イ・クッチョンがいなければ「エブリバディ・ハッピー」なのに、いつもやかましいって。

食事がどう喉を通ったか覚えていない。彼の言い方には冷笑と自虐、憤怒と絶望が入り混じっており、真意の程を知るのは難しかった。それでもありがたいことに、私に向かって帰れとは言わなかった。ただ彼や彼の同僚が「偉大なヒューマニスト」と単純化されてしまうことへの強い警戒心と不信感で、神経が過敏になっているようだった。

|死にも階級がある

亜州大学病院の京畿南部地域重症外傷センターは2016年6月、地上5階、地下2階の独立した病院として正式にオープンした。重症外傷患者の診察と検査、手術から入院までを1ケ所でできる施設で、8つのトラウマベイとICUが40床、各種検査室等がある。「重症外傷」とは多発性外傷を指す。大きな物体にぶつかったり、巻き込まれたり、あるいは墜落した場合などでは、手足と骨、臓器などの損傷が複合的であり、出血がひどい患者には迅速かつ正確に措置を施さなければ命取りになる。

大型病院は病床回転率を上げるために、手術日程の調整がしやすい一般患者を好み、また癌センターや脳血管系クリニックのようにお金になる診療部門に力を注ぐ。重症外傷患者は救急病院を探し回ったあげく、その途中で死に、手術室が空いてなくて死に、執刀医がいなくてろくすっぽ治療も受けられないまま死ぬ。彼らの大部分は電話一本で医者を呼び出せるコネや縁故がない庶民たちだ。2010年に『ハンギョレ21』のキム・ギテ記者が1週間にわたってイ・クッチョンのチームと一緒に寝泊まりをしながら調査したところによると、重症外傷患者の大多数は飲食店の配達人、スーパーマーケットの店員、日雇い労働者、生産現場の労働者、零細の自営業者、無職の人々のような一般庶民だった。

海外でも重症外傷患者の中には肉体労働者が多いのでしょうか?
――どこの国もみんな同じです。もちろん事務職の人だって怪我をすることはありますが、出勤や帰宅途中などに怪我をするケースがほとんどで、どこかから落ちるとか、何かが倒れてきて怪我をすることはないでしょう。先進国に外傷センターを建てられたのは、国家経済の底辺を支える根幹が、そんなブルーカラーの人々だからです。軍人のための総合病院をつくり、警察のための警察病院をつくるように、社会の基幹産業の要員である彼らが一生懸命働いて怪我をした時に、きちんと治療を受けられなければ、危険な作業現場で働けと言えないでしょう。

最小限の社会安全網になっているわけですね。
――その人達を救うのは国家の生産性という面でも重要なことです。外傷は40歳以下の若い人々の死亡原因の1位です。さっき来たオートバイの患者もそうじゃないですか。エアバッグが6個ついた高級車に乗っていたら、あんなふうになりますか? オートバイで宅配の仕事をする人は若者である確率が高いのですが、そんな若い人たちが死ななくてすめば、これからもずっと働くことができますよね? 税金もきちんきちんと納めながら。前に宅配のバイト中にオートバイ事故に遭って、結局脚を切断した子がいたんですが、障害があるにもかかわらず大きな会社に就職できたと、お礼の挨拶に来てくれました。若い人たちの場合は、命を救ってあげさえすれば、また働こうとする意欲も体力もありますから、国家の生産性を上げることにもつながります。

「世界を変える時間15分」で重症外傷医療の現場について講演するイ・クッチョン氏

「予防可能な死亡率」というのは、「迅速で適切な治療をすれば救うことができるのに、それができずに死亡にいたってしまう比率」という意味ですよね? 2008年度に梨花イファ女子大学のチョン・グヨン教授が調査した数値が35.2%でした。死亡者3人のうち1人は救うことができたという計算になります。
――実際にはそれよりもはるかに多いと思います。

そのために、政府が2015年までに20%に減らそうとしているんだそうです。最近の統計は出ていますか?
――正確な基準やデータそのものがないんです。

では20%台に減らすとか何とかいうのは……
――簡単ではないでしょう。2007年から2008年にかけて、英国のロイヤルロンドン病院の外傷センターにいた時のカルテをお見せしましょうか? 患者が1人死ぬと「死亡患者レビュー」というものを作成します。(カルテを指差しながら)ここを見て下さい。ヘリコプターの出動を要請したのが8時40分、現場到着が9時5分。そして患者の状態がどんなふうで、どんな検査と処置をしたかを全て書きます。そこから始まって最終的に死を防ぐことができたのかできなかったのか、4段階に分けて評価します。

イ・クッチョンは関連論文を探してプリントアウトしてくれ、彼のノートパソコンに保存してあった図表や絵を指差しながら、詳しい説明もしてくれた。彼の態度は食事の時とは全く違っていた。私が彼の「伝説的エピソード」や美談にだけ関心をもっているのではないことが、彼を多少なりとも安心させたようだった。

韓国でもそんなふうに死亡者のレビューを作成しますか? 防げた死なのかどうか?
――書けないでしょう。カルテに残せば大変なことになると思いますよ。

では、予防可能な死亡率の統計を作れる一次データがないんですね。
――データもないし、「やばそう!」と思うから、お互いそれには触れませんよ。いくつかの病院で試験的、スタディ的なレベルでやるぐらいです。

|「イ・クッチョン法」ができても変わらないこと

イ・クッチョンが外傷外科に本格的に足を踏み入れたのは亜州大学医学部で博士号をとった翌年の2003年、米国カリフォルニア大学のサンディアゴメディカルセンターで研修を始めてからだった。指導教授であるデビッド・ホイット教授(全米外科学会会長)は口癖のように「テンポ」を強調した。医師たちが病院の屋上でヘリコプターに乗って直接出動する「病院の前段階」から「救急処置」「手術」「ICU」「リハビリテーション」の5段階が有機的に結びつき、遅滞なく一定のテンポで連係した時に患者は助かる。2007年から2008年、ロイヤルロンドン病院の外傷センターで仕事をしたことは、彼にとって大きな財産となった。医者たちは病院の屋上に常駐するヘリコプターに乗って、1日に4、5回ずつ事故現場に直接出動し、悪天候でも命がけで患者のもとに駆けつける。

イ・クッチョンが夢見たのは、韓国にもそんな世界レベルの外傷外科システムをつくることだった。重症外傷センターを設立して、ゴールデンタイム内に患者を移送し、手術をして救うこと。ところが、現実はそれほど甘くなかった。彼は病院に赤字だけをもたらす「厄介者」だった。重症外傷センターは保険の診療報酬がとても低く、死にゆく患者を救えば救うほど赤字が増えていく。2009年に8億ウォンを超えた外傷外科の赤字は、2012年には20億ウォンまで跳ね上がった。彼がソク・ヘギュン船長の命を救ったことで、さらに患者が増えたからだ。周囲ではあからさまに彼に圧力をかけ、解任しようとする動きも途切れることがなかった。彼の名前がついたイ・クッチョン法が2012年に制定され、全国の地域外傷センターを政府が支援するという方針が伝えられたことで、「イ・クッチョンがスター気取りでメディア操作をしている」という非難まで湧き上がった。

「イ・クッチョン法」によって全国に地域外傷センターができたのなら、そのエリアで発生したどんな重症外傷患者もただちにセンターに移送され、治療を受けられなければいけませんよね? それなのに、2016年にも交通事故にあった2歳の子どもが、治療してくれる病院を探せずに、6時間もの時間を無駄にして亡くなったという痛ましいケースがありました。どうしてそんなことが起きてしまうのか? 常識的には理解できないのですが。
――まだまだ先は長いですよ。(ため息)政府が財政支援をすると言うもんだから、全国の病院がこぞって、今すぐ自分たちの地域に外傷センターができなければ多くの患者が血を流しながら死んでしまうと、それは立派な事業計画書をつくって提出したんです。ところが実際に地域外傷センターに指定されて支援金を受け取った途端に、こんどは患者がいないと言うんです。1日に1人来ようが100人来ようが、もらえる支援金は同じですから。

患者は行くところがなく、外傷センターは患者がいない。どうしてそうなってしまうんですか?
――それなりの模範的事例を一つ二つつくって、しだいにそれが細胞分裂するように増えていかなきゃいけないんですが、外傷外科の基礎も知らない人たちがあちこちで外傷センターを運営しているのが問題なのです。政府はどうしてそんなふうにしたのかわかりません。支援対象を適当に選んでお金をばら撒いてしまえば、それで済むという考えなんだと思います。

資格と実績が足りなければ、地域外傷センターの指定を取り消さなければいけないんじゃないですか?
――基準に満たないようなら指定を取り消して支援金を返還するようにと、法的にはそうなっているんです。でもそんなことわざわざする人なんかいませんよ。官僚主義とご都合主義がからみあっていて……。外傷センターの病床は一般患者の診療に転用してはいけないと法的にはきちんと決められているのに、患者がいないから外傷センターの医者たちを他の業務に投入しようとか、まあ勝手なことばかり言って。国から給料が出ていないならともかく、税金から億単位の年俸支援を受けているんです。だったら患者の治療のために 、消防車だろうがヘリコプターだろうが構わず乗りこんで、事故現場に駆けつけるべきでしょう。我々みたいに消防ヘリの出動を要請して、実際に医療スタッフが乗り込んでいくセンターは本当に少ないんです。

消防のヘリコプターではなく、医療用のヘリコプターを導入しましたよね?
――全国に6機あります。保健福祉省が1機につき1年に30億ウォンずつリース費用を払い、乗る医師にも手当をたっぷり支払っています。でも夜間は飛ばさないんです。危険だからと。

「京畿道救急医療センター専用ヘリポート設置協定式」に望むイ・クッチョン氏
(左、2019年6月、京畿道庁で)

先ほどのオートバイの患者は夜間に移送されてきたじゃないですか。
――本当に危険だから飛ばさないのかどうか、誰もそこをはっきりさせようとしないんです。亜州病院にはドクターヘリが配備されていないので、我々は消防のヘリで患者のもとに駆けつけます。消防のヘリは乗っても手当は全くつきませんが。

手当無しですか? 一種の緊急往診なのに。
――ないですよ。逆に一筆とられますよ。「飛行中にどんな事故があろうとも災難安全本部に民事刑事上の責任は問わない」と書いた誓約書にサインをして乗るんです。我々は消防のヘリに乗って途中で死んでも国立墓地には行けません。消防隊員ではないから。まあ、そんなことはどうでもいいんですが。

保険には入っているんですよね?
――保険でもこういうのは支払いの対象にはなりません。ヘリコプターに乗って肩の骨を折った時には、保険会社から連絡もきませんでした。

1年に300回近くヘリコプターで患者を移送し、本当に緊急なときにはヘリコプターの機内で胸を切開して心臓マッサージをしながら、あの世の入り口まで行った患者の命を救ったことで、亜州大学の重症外傷センターは予防可能死亡率を9%台まで大幅に下げることができた。そうしている間に、イ・クッチョンの身体は次第に満身創痍の状態になっていった。右肩はセウォル号の事故現場に行って骨折し、左の膝はヘリコプターから飛び降りた際に負傷した。左側の目はほぼ失明状態であることが2年前に職場の健康診断で発見された。右側の目も放っておけば発病の危険があると言われた。

医者が視力を失くしてどうするんですか? なんの病気なんですか?
――網膜血管の閉塞と破裂。80代の糖尿病患者がかかる病気です(笑)。睡眠不足が症状を悪化させるらしいんですが、どうしようもありません。母が知って悲しんでいます。父も左目を失ったんですが、「そんなところまで似なくても」と言って……。

彼の父親は、朝鮮戦争の直後に地雷の破片で網膜を損傷して失明した。大学まで卒業したインテリだったが、戦争に青春を捧げた父親は社会の中にふさわしい居場所を見つけることができなかった。

ご存命でいらっしゃるんですか?
――2000年に亡くなりました。父は太くて真っ直ぐな人でした。国際空港の経理部になんとか職を得たんですが、みんなが駐車料金をくすねるのに目をつぶっていられなかった。そのことで金海キメ空港に左遷になり、辞めてしまいました。汚い職場だと。

たしかにお父様にそっくりでいらっしゃる(笑)。医者になろうというのは、いつ頃からそう思ったのですか?
――父は国家有功者**なので黄色の医療カードを持っています。それを持って病院に行くと、なんで来たのかと露骨に嫌な顔をされるんですよね。当時、町内に「キム・ハクサン外科」という病院があったんですが、そこの院長は冷たくなかった。患者本人の負担分は受け取らずに、逆に私にお小遣いまでくれたんです。こんないいお医者さんになれば、お金も儲けられるし、良いこともできると思ったんです。

**戦争や民主化運動をはじめ、様々な分野で国家のために貢献したり、犠牲になった人々。韓国政府から正式認定された本人と遺族には、様々な優遇制度がある。

後編に続く

ヘッダー写真:『あなたが輝いていた時』原書(文学トンネ刊)書影

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著者:イ・ジンスン
1982年ソウル大学社会学科入学。1985年に初の総女学生会長に選ばれる。20代は学生運動と労働運動の日々を過ごし、30代になってから放送作家として<MBCドラマスペシャル><やっと語ることができる>等の番組を担当した。40歳で米国のラトガーズ大学に留学。「インターネットをベースにした市民運動研究」で博士号を取得後、オールド・ドミニオン大学助教授。市民ジャーナリズムについて講義をする。2013年に帰国して希望製作所副所長。2015年8月からは市民参与政治と青年活動家養成を目的とした活動を開始し、財団法人ワグルを創立。2013年から6年間、ハンギョレ新聞土曜版にコラムを連載し、122人にインタビューした。どうすれは人々の水平的なネットワークで垂直な権力を制御できるか、どうすれば平凡な人々の温もりで凍りついた世の中を生き返らせることができるのか、その答えを探している。

訳者:伊東順子
ライター、編集・翻訳業。愛知県生まれ。1990年に渡韓。ソウルで企画・翻訳オフィスJPアートプラン運営中。2017年に同人雑誌『中くらいの友だち――韓くに手帖』(皓星社)を創刊。近著には『韓国 現地からの報告――セウォル号事件から文在寅政権まで』(ちくま新書)、『韓国カルチャー 隣人の素顔と現在』(集英社新書)、訳書に『搾取都市、ソウル 韓国最底辺住宅街の人びと』(筑摩書房)等がある。

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