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ヨーロッパで体験したお弔いの文化

お弔い、つまり葬儀などに関わる話題って、こういうSNSに投稿するにはふさわしくないのかも、だけど・・・。でもお盆の時期であれば許してもらえるかなと思って、この時期を狙って投稿してみる。

1ヶ月後に葬儀へ参列します


ドイツ人同僚の女性
「1ヵ月後に葬儀があるので、〇月〇日に休暇を取りますよ」


「・・・え、ちょっと待って、1ヶ月後に葬儀って、いったいどういう意味?」

ドイツで働いていた当時の話。僕の常識だと、葬儀は亡くなってから遅くても2〜3日以内に執り行われるものだと思っていたから、ビックリして聞き返した。

ドイツ人同僚
「親しい友人のお母さんが2週間前に亡くなってしまって。彼女とは特別な仲だから、葬儀にはぜひ参列したいと思っていてね。なかなか日程が決まらなかったけど、ようやく1ヶ月後に開催することが決まったから」


「ということは、つまり亡くなってから1ヶ月半後にお葬式ってことやんね。なんでそんな時間がかかるの?」

と聞くと、神父さんや斎場の予約がすぐには取れないので、ドイツでは亡くなってから1~2ヵ月後に葬儀をすることもよくある、とのこと。

たぶん地域差などがあるはずだけど、そしてこの話を聞いたのは2015年なので今は常識が変わってきていると思うけど、ここではその同僚に聞いた話をそのまま書いてみる。

ドイツ人同僚
「今回は故人の遺志で、火葬にするらしいのよ。火葬はわずかここ10年くらいで急に普及してきたわね~。今じゃ半々くらいかしら


「え、ちょっと待って、じゃあ元々はみんな土葬だったの?」

日本だと衛生面などの理由によって100%近くが火葬だから、「火葬以外が選択肢としてある」ことにビックリして聞き返した。

ドイツ人同僚
「もちろん。木の棺に入れて地面に埋葬したら、20~30年くらいでだいたい棺ごと朽ちて、土になって無くなってしまうわよ」

イスラム教徒の場合は、火に焼かれるのは最も避けたいことなので土葬する、ということは知っていた。なぜならコーランには、神に背いた者は地獄の業火で焼かれるぞ、というフレーズが数え切れないくらい書かれているから。イスラム教は元々は灼熱の砂漠で生まれた宗教だから、そういう感覚になるのも理解できる。

でも、キリスト教世界でもみんな土葬だったとは知らなかった。でもちょっと考えてみれば、ゾンビが考え出されるんだから、土葬で当たり前ということやね。

そこで調べてみたら、キリスト教では教義で死者の復活があるから、火葬によって故人を骨にしてしまう(=自分たちの手で故人の復活の可能性を絶ってしまう)ことを避けたい、ということらしい。その考え方は、同じく一神教のイスラム教とユダヤ教でも同様。

それでも最近は土地不足などによって火葬が増えてきているとのこと。特に北部ヨーロッパではリベラルなプロテスタントが多く、保守的なカトリックがメジャーな南部ヨーロッパよりも火葬の割合が高めのようだ。

ちなみに火葬の場合だと、アパートの集合ポストみたいなものが墓地に建っていて、遺骨をそういうところに入れるケースもある。一つのポストに(ゆくゆくは)夫婦で一緒に入るのが一般的らしい。

なお、ドイツでは古来のイエ制度の考え方が希薄なので、一族が代々みんな同じお墓に入ることは基本的に無い様子。広い場所が必要な土葬の場合、みんなが同じお墓を共有することが物理的に難しいという背景もあるだろう。

実際のドイツ人の葬儀に参列

そしてあいにく・・・この話を聞いた数年後に、ドイツ人同僚の旦那さんが病気で亡くなって、葬儀に招かれて参列した。

まず、日本の葬儀であれば、一般的には檀家になっているお寺さんのご住職さんに執り行ってもらうのが基本形。
※ご住職さんの呼び方は他にも、和尚さん、お坊さん、ごじゅさん、おっさん、ぼんさんなど地域や宗派でいろんな言い方があるけれど。

昔であれば、お寺さんが故人の「人となり」を知っていて、お寺さんが故人に因んだ話をすることも一般的だった。

けど、日本ではこの数十年、社会が大きく変容してきて、今ではお寺さんと深い関係を続けている家はだいぶ減っていると思う。日本の法律では会社が従業員の勤務地を決定する権限を持っているため、国民が各企業の経済合理性に従って大規模な移住(特に首都圏への流入)を繰り返してきた結果、国民と地域社会の繋がりが常に切断され続けていることが日本固有の特殊事情として大きく影響していると思う。加えて宗教離れ等も、お寺さんとの関係希薄化に拍車をかけている。

そんな日本と比較すると、自分で住む地域を選ぶことができるドイツでは、地域のコミュニティーはまだそれなりに機能していると思う。彼女も自分が選んで住んでいる街に対して「自分ごと」として愛着を持ち、ボランティア活動などで地域社会との関係を保っていた。

だから、もし故人が地域の教会と繋がりを持っていれば、その教会で葬儀を執り行うことになるんだけれど・・・でも、人々の「宗教離れ」についてはドイツでも明らかに進行している。だから、彼女の旦那さんが日ごろから関係を維持している教会はなかった。

そこで彼女は、住んでいる地域の中で評判が良いプロテスタントの教会を訪れて、事前に牧師さんと面談した。故人がどんな人だったのか話をして、当日の式を迎えることに。

因みにこの場合は、亡くなってから葬儀まで1ヶ月弱くらいだったと思う。夏真っ盛りの、それはそれは空が青い快晴の日だった。

当日は午前中から100人弱くらいの人たちが教会に集まって、式が始まった。亡くなってから式までの期間に余裕があるから、知人たちが集まりやすいのは間違いない。

教会に入ると、座席はいわゆる教室形式のように参加者が一方向を向く形ではなく、円卓を幾重にも囲むような形式でぐるっと皆が席に座る。片方のお誕生日席には牧師さんがいて、その反対のお誕生日席には遺族が座っている。みんな顔が見える非常にオープンな形。

亡くなってから式まで何週間かの期間があるから、その間に故人の奥さん(つまり僕の同僚)が詳細な式次第をつくって、参列者に配布する。子どもはいない夫婦で、2人の仲睦まじい写真が表紙を飾っている。

最初は牧師さんから故人についてのお話。色々と話をしてくれて、みんながその説法に聞き入る。

20分くらいだったか、牧師さんのお話が終わった後で、みんなで歌を歌う

選ばれた歌は、故人と奥さん(同僚)がいつも夏に旅行していたスコットランドにちなんだ歌。Loch Lomondというタイトルで、僕も家族で旅行したことのある、スコットランドの湖がテーマになっている。故人の友人がギターで演奏しながら、みんなで合唱。メロディーは分かりやすく、歌詞は式次第に書いてくれているから、みんなで故人を偲びながら歌うことができる。とても心のこもった良い式だった。

特に印象的だったのは、上述のように式の最初から最後までずっとみんなの顔が見えていたこと。日本の場合だと、ご遺族の震える背中を通じて心中をお察しする、という間接的な伝わり方がメインになるけれど、この式では最初から最後までずっとご遺族の表情がみんなに見えていた。ダイレクトなコミュニケーションをよしとするドイツ人らしい形式なのかな。でもこの形式が一般的かどうかは分からないけど。

そうやって式が終わると、みんなで車に乗り合わせてお墓へ移動。故人の場合は火葬を選んだので、既に骨壺に入っている。もし土葬であれば、大人が何人かで棺を持って運んでいくことになるのだろうか。

既にお墓は、花とか墓石がとてもきれいにデザインされて配置されていた。故人の奥さんがデザインを考えたとのこと。穴が掘られていて、その中に骨壺が入れられる。そこへ参列者が代わる代わる土をかけていき、骨壺が土で覆われていく。

最後に牧師さんがお祈りして、納骨は終了。

参列者は、そのまま墓地に併設されている喫茶店のようなところへ移動。そこでみんなでケーキを食べてコーヒーを飲んで、三々五々に帰っていく

日本の葬儀と比べると、準備時間がある分だけ、遺族が故人用にカスタマイズした趣向を凝らしていた。やはり個人主義(個人を大事にすることで社会全体の幸せを大きくしようという考え)が根付いているドイツらしい印象。

↓ ドイツのお墓。いつもすっっごく手入れが行き届いていて、美しい。

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海へ散骨した話

この話とは別に、同僚女性がデンマーク人の旦那を亡くしたときの話について。故人の遺志に従って、お骨をデンマークの海へ撒いた話を聞いた。

彼女自身はユダヤ人。社会主義国だったチェコスロバキアで生まれ育って、大学を卒業してからドイツに移住してきた。

ユダヤ人同僚
「数年前に旦那が亡くなった時、デンマークの海に親戚一同で行って、ボートから散骨したの。旦那はドイツ国籍になっていたから、普通に手続きしてしまうと、ドイツの法律によって海で散骨することは許されない。だから法律に抵触しないように、一旦スイスに墓地を買ったりして、合法的に海で散骨できるように手続きをしたの。すごく大変だったけどね」


「散骨する時はどんな気分だった?」

ユダヤ人同僚
「まず何より海上は風が強かったから、撒いた骨の粉が自分たちに掛かって大変だったわねー。笑。

でも、孫たちも含めて親戚一同で骨を撒く、というのが特別なイベントだったから、なんともいえず感傷的になったのはよく覚えてる」


「なんで海へ?」

ユダヤ人同僚
「旦那が海が好きな人だったのと、あとは墓のおもりで子どもたちに負担を掛けたくないから、って言ってたわ」

ヨーロッパのお弔いから考えた

いかがだったでしょうか。日本の常識とはまた違ったヨーロッパのお弔いにまつわる、いくつかのお話。こんな話題で、かつ長文。一般ウケを全く考えずに書いた投稿をここまで読んでくださってありがとうございます。あとひと息でおしまいです。

そもそも葬儀の目的を考えると、一義的には亡くなった人を弔うもの。でもそれだけではなくて、そういったイベントを通じて、遺された人たちが大切な人を失った喪失の気持ちと折り合いをつけていくプロセスの一つでもある。その両方の性質が、葬儀というコインの表面と裏面にそれぞれ彫られている。

今回書かせてもらったいずれの葬儀でも、故人を弔う過程で、遺族たちがかなりの時間をかけて故人に思いを馳せ、自分たちなりに出来ることをやる、という特別な時間を過ごしていたように感じた。

日本の場合は、亡くなったら慌ただしく葬儀の準備が始まって、悲しみに浸る時間もそこそこに、という運営にならざるを得ないと思う。そういうタイムスケジュールになっているから、そこは自分たちには変えられない。

であれば、日本の場合だと、どうすれば葬儀を故人を偲ぶ(=自分の気持ちに折り合いをつける)プロセスにしやすいか。

例えば、そういった近しい人の「いざという時」に備えて、予め写真やビデオを用意しておく。または略歴やエピソードを整理しておく。ご先祖さまの情報を集めておく。流す歌を考えておく。

あんまり準備万端だと「なんや待ち望んでいたんか」とか言われそうだけど、、、

でもまぁ、葬儀のためでなく、また公衆に披露しない前提かも知れないけれど、できれば平時のうちに、親やパートナーのそういった節目のものを予め整理しておくのも、悪くないかもしれない。

そうすれば、いつか来るその時が実際に来た時に、自分なりにやれることはやったという気持ちが生まれるのではないだろうか。そしてその分、大切な人を失った悲しみの気持ちに折り合いをつけやすくなるのではないだろうか。

もしくは、自分に関わるそういったものを予め準備しておいて、子どもへ知らせておく。そうすることによって、自分の人生を子どもへ引き継いだ、と満足したり、自分が去るときの無念さを和らげることができるかも知れない。いわゆる「終活」やね。

ということで、ヨーロッパのお弔いの文化について思い出しながら、そんなことを考えていた久しぶりの日本でのお盆でした。


※1年前のお盆の時期にもヨーロッパの人の死生観について投稿したので、もし興味あればこちらの記事もどうぞ。

by 世界の人に聞いてみた

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