与えられるコンテンツと生み出すコンテンツの差

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田んぼの裏にある約1,600㎡に広がる湿地帯。
そこで、毎年2-3m程まで育つ芦。

この場所に子供達が遊べる水場や花畑を作ろう、3年位前からかれこれ5回近く草刈りして更地にして、で、他の作業に時間を取られ何もできず、また生えて、草刈りの繰り返しも今年で終わりにしたい!

作業開始。

水をたっぷり含んで太く、そして高く、そして、とても重たい。

草刈機で倒れた芦を左右へと分けるんだけれど、ずっしりしているから、腕に腰にと負担がかかる。

あっという間に汗だくでウェーダーの中もグッチャグチャ。唯一の救いは曇り空。これで晴天なら確実に熱中症だ。

それでも、こうした自然の中での活動は気持ちがいい。

「与えられている価値」の認識を持つ

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翌朝は国立新美術館でやっている「古典×現代2020」を見に行くついでに、銀座線の虎ノ門駅と新しく出来た虎ノ門ヒルズ駅間を歩いてみた。

日比谷線に向かう長い通路の壁はご覧の通りなぁんもない。これから、広告やアートなんかを掲載するのかな?

途中、虎ノ門ヒルズに出来た虎ノ門横丁へ寄り道。

何件か知ってるお店が出店していたり、恵比寿横丁の様な雰囲気があって若い人たちが昼前からビール片手に、もうちょっと離れたら?と言いたくなる程、楽しそうに会話。

落ち着いたら行ってみたいなと思うけれど、感染とは別の意味からモヤモヤした気持ちになってしまう。

土埃の中で汗だくになって草刈りして、屈託ない笑顔で疲れたねーと言い合った田んぼと真逆の洗練された街とお洒落なお店。

消費させる為に作られたビル郡から新たに生まれる文化は何だろう。

そりゃお金ファーストですよ。そうなんだけれど・・・

コロナ渦の中、仕事はどうする、これからどうやって生きていく、家賃はどうする?

その前提になる事は、お金だ。

消費する為に働かなくちゃいけない流れは、資本主義経済においては常識だ。社会的にも意義ある事を実現しようとすると、「理想はわかるが現実だ」という免罪符が必ず出てくる。

給料が無くなるって事は自分で創り出していく意識でなければいけない。

家賃の為、学費の為、食べる為、あと何があるだろう?

もちろん、生活設計としての必要な金額や、可処分所得の使い道は考えなくちゃいけない。

しかし、考えるべきは本当に必要なお金は何かという事だし、それってお金がないと出来ないのかという事だと思う。

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便利だと見えてこない

農作業をやってる時、サイクリングをしていた方に声をかけられた。

一人は議員で、もう一人は世界の人にサイクリングを通じて日本の各地の良さを知ってもらうイベントを企画しているんだそう。

自転車で回る途中で、里山文化を体験するべく、農業体験×古民家宿泊を体験イベントに加えてみたらどうかという話で盛り上がったが、外部から日本を体験してもらう事で気づく事は多いはずだ。

次々できる商業ビルで目新しいものはほとんど無いし、世界にも同じ様なものは沢山ある。

ところで、コロナ渦で感じる喜びは何だろう。

5Gや自動運転技術、新しく出来た商業施設の情報ではないはずだ。

それは、生き甲斐や充実感だと思う。

与えられるだけの価値観の中で、それらを得る事は難しい。

自分で創り出したものじゃないから、次へ次へと貪欲に新しいものを追いかける。もちろん、自分で創り出す事は難しいけれど、作らないまでも、気づける力と自分で創り出す事は近いと思う。

オフラインの環境で土をいじり、風を感じ、自然の香り、鳥や虫、木々の音に耳を傾ける。

消費が伴う商業施設隣接する街で過ごすより、よほど有意義な休日になる。

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