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結婚した広東人のお兄さん

彼は中国、広東省の出身で広東語を話す。彼の英語には独特の鈍りがあった。当時の私は広東と聞いても広い中国のどの位置にあたるかとか、彼等の方言とかはよくわからなかった。

出会ったのは私が18歳で彼は28歳。初期の大学の英語クラスの中で妙に落ち着いた大人がいるな、と思った。自己紹介で私はフィルムカメラの授業を取りたいと拙い英語で言った。授業の後にクラスを出ようとしたらdo you like pictures?と変な英語で写真が好きなのかと聞いてきてくれたのをきっかけに、インスタグラムを交換することになる。時を経て彼の英語の独特さは広東風だと気付けるようになった。

最初にクラスで見た日から他の中国人には無いサブカルチャーみを帯びているのは、彼の格好からわかった。リーバイスのジーンズシャツに茶色い半ズボン、そしてマーチンの3ホールを履いていた。腕には大きいメカニックな時計をしていてそれが大人びた社会人の貫禄を見せ付けていた。友達になる前に、赤いパッケージの中国のタバコを吸っている彼を見た事があった。クラスの中ではニコニコしてみんなを見渡すようにして周りに気を遣っていた彼は、1人で煙草を吸っている時だけ神妙な面持ちで遠くを見ていた。通りすがる私に気付き、にこやかに笑って手を振ってくれた。お互い英語をうまく話せず何も言わずに私は家に帰った。

そんな彼とインスタグラムを交換して、趣味は革靴を磨くこと。フィルムカメラが好きでコーヒーはハンドドリップで淹れる28歳だと知った。インスタを見てから彼から滲み出ていたサブカルチャーの正体を知って納得した。

私は無事フィルムカメラの授業を取る事になった。英語がまだ上手く話せなかった私は、いかにも地元の人が営んでいそうな田舎の小さな写真屋に一人で出向く気にぬかなかなれないでいた。その事を彼に話すと、「フィルムカメラなら僕も見に行きたいんだ」と大人の気遣いを見せてくれて一緒に行く事になった。小さな写真屋は白人のサンタクロースの様なお爺さんが営んでいた。お爺さんはリズミカルに早口でカメラの話しをした。ビール腹にXLサイズのリーバイスの色あせたジーンズにサスペンダー。冬でも半袖のTシャツを着ていて、細かい事は気にせず、"Absolutely もちろんだよ" と誰にでも気を許すおおらかさと田舎っぽさを含んだ"カナダ人のお爺さん"を前にして私は安堵した。

英語をうまく喋れないは28歳の彼と18歳の私はお爺さんのチャーミングな接客を経て店から出てきた。私はNikonのフィルムカメラを手に入れた。「僕は目が悪くて眼鏡をかけているから、フィルムの写真を撮る時はコンタクトレンズを付けるんだけど、君は視力はどう?」と言いながら彼はレンズ越しに私に聞いた。「こうやってバインダーを覗きながらレンズを絞ってピントを合わせるんだ、やってごらん」そう言って彼からカメラを受け取る。バインダーを除いてレンズを絞るとニコニコと笑っている彼が見えて、細かくピントを合わせると彼のメカニカルな時計が西日に反射して光っていた。

それから半年くらいして夏になった。夏は10時半くらいまで明るくて、涼しくて長い夜に散歩して過ごすのが好きだった。私の家の前の長い坂道を下ると谷が見える。谷の中の青々とした緑の前で見るオレンジの夕日はゆっくりと時間をかけて沈む。そうやって黄昏ていると、広東人の彼が通りかかった。「久しぶりだね、クラスはどう?君もこの近くに住んでるの?僕はここに住んでるんだ」と言って彼はすぐ近くにある小さな家を指差した。「この谷と僕の家のバルコニーは繋がってるんだ、僕は今からそこで煙草を吸うんだけど君もどう?」と言って彼はニコニコと笑った。私たちはオレンジに染まった夕日の中を歩いて彼のバルコニーへと向かった。彼は庭に着くと何かをむしりだして、「お水でいい?」と聞いた。「ほら、これミントなんだよ」と彼は言って手際よくミントを洗い、スライスしたレモンと一緒にお水の中に入れてくれた。初めて飲むミントとレモンの入ったお水は夏にぴったりだった。彼はパソコンの電源にスイッチを入れてジャズの音楽をかけた。「これ、僕が君の歳くらいに撮ったフィルム写真。最近やっと整理してパソコンに入れたんだよ」と言った。彼の写真は広州の大学生時代の写真で、大学の寮の4畳半ほどの部屋でドリップコーヒーを淹れる様子や、地方の山に旅行している時の写真だった。「僕、来週引っ越すんだよ。この町はのどかで良かったけど、少し寒過ぎる。都会にある学校の大学院に入るんだ。」と彼は言った。私は彼のメカニカルな時計を見ながら、「それは残念だけれど,good luck(上手く行くといいね」と私は言った。トロンボーンの音色がゆっくり流れていた。私はミントウォーターと、彼の素敵な若かりし頃のフィルム写真達にお礼を言って、暗くなる前に家に帰った。

その日から月日は流れて、彼とは疎遠になった。

先日彼はインスタグラムに綺麗な女の人の写真をあげた。彼女のページに飛ぶと、彼らが最近結婚した事を知った。華奢で色白で背が高く綺麗な広東人のお姉さんだった。黒くてはっきりした眉毛と大きな瞳の彼女は昔の香港映画に出てくるヒロインみたいだった。長い間彼は写真を投稿していなかったし、綺麗な奥さんの一枚の写真以来、彼はインスタグラムを更新していない。彼女も結婚式の写真から投稿を絶やしていた。

私は2人の生活の断片を伺う事は出来なかったけれど彼等はきっと文化的で情緒の安定した日々を送っているのだろうと思った。彼が朝淹れるコーヒーや、彼女が摘んでくる庭のハーブなどを想像すると、ジャズが聴こえてくる。

彼等は昔から私よりもずっと、大人だ。


不束なる物ですが…🙏