見出し画像

両親について

noteを遺言状にする手前、34年分の膨大な情報を書き出さねばならないので
とりあえず両親に区切ります。
後の世で役に立てばいいかな。


まずは父について。
こちらはあまり口を割らないので、事細かに書けないのですが
まあ簡単に言ってしまうと昭和の頑固親父です。

一族の成り立ちから、主君を失った落ち武者の武家であり、その一族の総本家がうちです。
まあ平和な世の中になったのでそんなものは効力がないでしょうが、神代シリーズで使ってる設定は大体うちが由来です。
双葉一族は元々刕一族だとかね。
一月が11月19日生まれなのも、11月11日が侍の日らしく、私で17代目(多分)だからだそうです。
審神者軸だと2205年なので、2代足して19代目、そこらへんから19日となっています。


総本家の家に生まれました父は、まあ親が大正時代とかなわけです。
聞いた感じだと、祖父はギリギリ徴兵を免れたそうですね。ただ祖父は5男なので、4男以上がどうだったかは分からない激しい時代です。
昔は口伝で伝えていくものでした。まあそのあたりは白蛇シリーズ参照でいいかな。

『総本家長男』として恥じないように教育されてきて、いきなり平成で自由になってしまい、時代に取り残されたまま令和へ来てしまったかもしれません。
現に、「時代は変わるものだから、受け継がなくていい」と言いながら、長男と次男が話を放棄したため、長女の私にまで話は降りてきました。
まあとうらぶやってたからってのが強いと思いますけどね。奇しくも「絶えていい」と言ったはずの口伝は、私まで降りてきたわけです。

食事時によくしゃべる人でした。
マザコンのきらいはあり、週1で顔を見せに行くような人で、畑仕事もよく手伝いました。
祖父との関係は推し測れませんでしたが、悪くはなかったのかなくらい。
ただ、長男(私の兄)の視覚障害を母と兄のせいにする言動をした際、父も同じ視覚障害でしたので、「今まで俺のこともそんな風に見ていたのか!!」と怒鳴ったことがあるとは聞きました。
小姑の嫁いびりはあったようですね。
夫婦の話にもよく口を挟む場面があったらしく、たびたび「それは夫婦で決めるから黙ってくれ」とあしらっていたそうです。
マザコンですが、愛妻家でもあるので、妻を蔑ろにはしたくなかったのかもしれませんね。今はちょっと違いますが。

また、やはり古い価値観の人ですから、『家』を大事にする人でした。
弟が精神障害になった時は足繁く通っていましたが、子どもの私でも分かるような『なんで「今の」叔父ちゃんの気持ちを、誰も聞いていないのかな』とかはありました。
祖父母に至っては嘆くばかりで、何をしたかは知りませんね。聞かされてない(聞かされてない)
叔父について「社会福祉を学ぶお前的には、どう思う?」とは一度だけ聞かれましたが、丁寧に説明してもそれをしなかったので、最終的には叔父は「兄娘しか俺に味方はいない」みたいな態度になってしまい、叔父と父は大喧嘩になり、父が一時期放心状態になってました。嫌われたのでしょうね。

頑張っても報われないというか……
頑張る方向性が違うんだよな……
が、わたし的な所感です。
昔話を聞いていても、特におかしいことはなくて、あー貿易が珍しい時代だったんだなぁくらい。
父は「コーヒー豆だけ貰っても困るんだ」と笑ってましたが、母は「風邪をひいた時にしかバナナは出なかったのよ」ですから、まあそんな時代だったでしょう。

総本家長男としての生き方を叩き込まれた父は、時代に沿う生き方をと思いながら、沿えずに生きていました。
今の時代にどれだけの人が知ってるか知りませんが、分家が本家に忠誠を尽くすように、本家は分家を守る義務があります。
畑仕事は趣味みたいなものだから苦ではなかったようですが(じゃないとリーマン仕事明けに畑仕事しに行かないよな……)、畑で収穫したものを配りに行くとかするわけです。
分家に飢饉があってはいけないから。
そんな意識が無くなった年代を相手にすると、陰口がよく聞こえました。『施しのつもりなのかしらね』と。
父も気付いてて黙っていたようですが、私は実父を蔑まれてますので、女という愛嬌を使って揉み消してきました。
「(父の名前)さんの娘さんは、可愛くて気立てがええね。また来てね」
掌返しもさながらですが、私としては実父を悪様に言われないのが目的です。「ええ、また来ますよ。お姉さん優しいもんなぁ」「まあ嬉しいこと言うてくれる。干し柿しか付かないわよ?」「干し柿が好物でしてうふふ」「あらやだ打算も込なの?可愛いから許すわぁ」

女狐かな。

ただ、父の決定的な欠陥は、相手の意図を汲めないところにありました。
母が「怖い!離して!」と介助を拒んで怪我をしたことがあるのですが、「折角世話してやっとるのに、なんだあの態度は!」と激昂してました。
私が介護技術の要点を教えた後です

私が障害者になってしまったので、医師の説明を聞く権利はある(父なので)と同行させましたが、聞いてすらいない。

このままだと社会のお荷物どころか一家のお荷物なので年金事務所に行きましたが、車から出てこない。むしろ難航して対応してる社労士と綿密に話しているのを割って入ってくる。「遅くなるなら先に言って」。いや無理だが。
そもそも、発覚は成人してからですが、発症は未成年である可能性が極めて高いと言われています。未成年の世話や保護は保護者(親)の管轄ではないのか???

そんな、どっかズレた父ですが、
『家族全員が揃う時間が欲しいな』とか
『食卓は家族で囲みたいな』とか
ささやかな願いがあり、まあそれ自体は簡単だったのでやってきました。
ただ、食事時に他人の悪口が口をつく人でした

それが仕事の話だったら、大変だったね、お疲れ様でよかったでしょう。
叔父への愚痴もあった。
母への暴言もあった。ここで既に心理的虐待ですね。配偶者への暴言ですので。
あまつさえ、反論してこないと分かっているTVの向こうのインタビュアーに暴言吐くんです。
電気屋に行けば店員と喧嘩。
パン屋に行っても店員と喧嘩。
仲裁はいつも私。
次男と母はさっさと逃げてしまうし。
そうやって、私は味覚を失って、最終的には同じ食卓に座れなくなりました。

これで悪気がないんですよね。すごくね。
まあ、説教も下手なんですよ。
叱るのは仕方ない。自分の意見を言えまでもおかしくはない。ただ何を言っても全否定です
全否定よりはと黙れば「都合が悪いと直ぐに黙る」とか言います。そりゃあんただよ。

医者に止められたせいで、老後は畑仕事!と意気込んでいた理由を失い、さすがにそこは心配だったので、代わりに、家から出たがる次男を週1縫い止めて、母の介助をする(と言っても、飲み物いる?なんか食べる?みたいな生存確認)くらいの生き甲斐は残しておかないとなって。
愛妻家ですから、自分が出来る範囲での面倒見はしたいんですよ。意見が反発しなければね。
生き甲斐を失った定年退職者ってポックリ死ぬとかいいますので、そこは大事にしてたかな。

ただ、まあ未だに無理してそうなのは悩みですが。
いい加減70歳の自覚を持って欲しい。
いつまでも現役時代のままだと思ってそうなのが心配です。

結論的には……そうだなぁ。
理解力はミジンコですが、悪い父だとは思っていません。
いやだって、「会社の昼休憩が長いから愛娘に会いに帰って来ちゃった~♡」とか言うんですよ。妻にも「あんた……」って呆れた目をされてましたよ。

昔の私は……うん?小学校上がる前からもう兆候があったのかな。人より疲れやすくて。
「しょうがないな」と背負ってくれたのも父です。広くて暖かい背中でしたので、よく寝落ちました。

あとは、礼儀作法を叩き込んだのが父ですね。
私を産んでから体調の優れない母は育児が出来ず、結果、父・兄・兄が私を育てましたので、粗野な人間になりつつあるのを矯正したんですね。
まだ「女は男の3歩後ろ」とか「お酌は新入社員がするもの」みたいなのが暗黙の了解だった時代でしたから、男勝りな女など社会で生きていけない……(真っ青)と思ったのでしょう。
口調、礼儀、姿勢、箸の使い方までめちゃくちゃ口を出されました。ちなみに鉛筆持ちだけは直りませんでした。
ただまあ甲斐はあって、魚を食べますと言っても遜色ない箸使いは出来ます。



次。母ですね。
ぶっちゃけ母の方が長いです。
今から書くのがめんどくさ

母は、まあ既出ですが、私を産むと死ぬと言われていました。それでも産むと言いました。
母の親友と、父以外の全員が反対派で、味方は2人でした。
そこに、流産になった兄(長男、流産兄、次男、流産兄、私)への葛藤が無かったとは言いませんが
そこは聞いてないので割愛します。

ただまあ悪運が強いそうで、母は身体障害者になり生き延びました。嚢胞腎です。
当時は「娘さん(私)が25歳になるまで生きていれば、かなりの長寿でしょう」と言われていました。治療薬がないですからね。
腎移植に成功すれば生きていけることもあるそうですが適合率が低く、手術費も高く、何より母の時代ではピアスホール程度でも「親から貰った体に傷を付けるなど言語道断」という価値観の時代の人です。
私が胸を痛めているとか露知らず、母は「仮に脳死とかになって臓器提供を求められても断って。五体満足、五臓六腑揃ったまま死なせて」と言ってました。

そんな母と暮らしながら、まあよく見るわけなので、母が暗い表情をするのを見たりします。
どうしたのと聞いてもなんでもないよと言いますが、表情が2つ重なって見える私には泣いている顔が見えました。
それに違わず、母はたまに口にします。早く死にたいと。
まあ元々死を覚悟してお産に挑んだのです。生き延びて障害者になるとは思ってなかったでしょう。
透析は、本人曰く「4時間ずっとフルマラソンを全力疾走してる感じ」だそうですから、疲れます。
現に「病院行きたくない。むしろ病院が来い」とか、最終的には「透析は仕事」とか言ってました。

母に生き甲斐を持ってもらうために、色々プレゼンしました。ヒットしたのは夏目友人帳でした。
ニャンコ先生を可愛がってるうちは死にたいと思わないようで、むしろ次を心待ちにする元気もありました。
病床で何も出来ない身というのは分かりますから、これは頑張れたのかな。

次に、母が「娘(私)を産んだのは間違ってなかったんだ」と思ってもらえるよう、色んな知識を身につけ、経験から学び、母へ還元していきました。
私、別に死は悪い事だとは思っていません。
満足出来ない死のみを、悲しいと思っています

私は、人がその生涯を終える時
「悪くない人生だった」と思えること
これを何より重視しています。

なので、満足した上で死を選ぶなら、
それは単純に尊厳死だと思うのです。
日本は未発達ですけどね。

母は、よくヒステリックになりました。
23歳まで明らかにはなりませんでしたが、「4時間ずっとフルマラソンの透析」の後に「反動を抑えるキツイ薬を飲んで薬害をきたしている擦り切れたメンタル」の時に、「疲れ切っている自分の手伝いもせずヘソ天で寝てる男どもに腹が立って」いたようです。まあわからんくはない。
その矛先が私に来たのは困るけどな。
薬害なので記憶にないと言っていましたが、ヒスった母は私に「役立たず!」と何回も言いました。

じゃあ役に立てばいいかといえば、声を掛けても「大丈夫、しなくていいよ」
じゃあ部屋に帰るかと思えば「気が利かない」
矛盾のオンパレード甚だしく、幼児の私には意味がわかりませんでした。
今思えば、「娘だけが私を分かってくれる」という一種のパニック八つ当たりでしたね。
依存心も、なくはなかったでしょう。

じゃあなんで23歳まで粘ってしまったのかというと、家以外でも表情がダブることがあったからです。祖父母です。
母も総本家長女という身分だったらしく、まあだから父と結婚したのでしょうが、こちらは父の家と違って裕福ではなく、温かい家族でもなかった。
家に帰っても誰も居ない。親が出稼ぎに出てるからですね。
実の兄は頭が良く母に期待される傍ら、自分は凡才以下の勉強できない部類の娘。祖母がどんな気持ちで言ったかは知りませんが、「私はあんたを愛してない」とまで言われて、悲しい思いをしてきたそうです。

学校に行けば、いじめの的にされて。
従姉が強かったのでそんなに気にはしていなかったらしいですが、帰宅するのはその従姉の家です。
実家に帰ったって、家に誰もいない。
明かりもついてない。
自分を大事にしてくれる親も居ない。
そんな経験があったからこそ、「父さんが『お前が障害者になったからって離婚はしない!』って言ったからね、じゃあ帰ってきた子ども達に、いの一番に『おかえり』って言ってあげたかったの。明かりのついた家で。」と言っていました。
私はそれを、とても尊い暖かさだと思いました。

しかし、それでも盆と正月に顔を出さないわけにはいきません。しかめっ面の無愛想な母をよく見ました。
結婚後に揉めた、その時の態度が不誠実だった、その不誠実さが父さん(夫)への侮辱のようだったと聞いています。
ただ、さっさと車に帰ってしまう母を見上げると、やはり表情が2つ重なります。「許さない」と「かなしい」です。

親に愛されなかったことを、含まないとまでは言いませんが、なんか違うなと思いました。
日々の関わりの中から、少しずつ、少しずつ拾い上げていくうちに、「なぜ親を愛せないの、私は?」と思っているようだと感じました。
「愛していない」と親本人に言われた事実は消せない。そこに生まれた悲しみは消せない。

けど、それだけじゃなかったから、捨てきれない。
母と昔話をすると、まあ昔の風習の話も出てきますが、不思議なことに、「1番多くを過ごしたはずの従姉の家での話」は殆ど聞いてないんです。
「実の家族とどう過ごした」が圧倒的に多いのです。
その表情は、懐かしいと言うよりは、悲しい。
悲しいのに、捨てられない。
愛してくれない親を愛する子は、一体どんな葛藤の中を生きていくのでしょうね。

母が早く帰ってしまうぶん、祖父母には私が積極的に関わりました。
たまに「早く帰りたい」と言いたげな母に急かされたりしましたが、そこは塩梅と距離です。
娘に嫌われたかもしれないと、メンタルくそ弱の祖母はしょんぼりしていましたので、孫からは愛されているのよと示してきました。
解消はできずとも、いくらかは和らいだと信じたいところです。

ただ、祖母も歳が歳です。
祖父は、離婚の後に再婚(同じ相手)という謎の挙動で母を振り回しましたが、案外苦しまずポックリ逝きました。
消化不良だったのは母かもしれませんね。
1人になった祖母をどうしようかという折、「私を愛してないと言った分際で面倒見てもらえると思うなよ」的な反抗をした母は抜け、残った長男も「母さんにはついていこうと思えない」とのことで、絶縁の形に収まりました。
危篤か、死亡した場合のみ会えます。

一度だけ、危篤になったことがありました。
生きている祖母に会うのが最後になるかもしれないからと、母も動揺を隠せずついてきました。

「あんたなんか愛してない」

その傷が如何程のものだったかは分かりませんが、それでもその危篤の祖母を見る母は
「いかないで」
と、私以外がみても分かるくらいには顔に出てました。でも勇気が出ない。
手のかかる母よと思いながら、祖母の手を握りました。よくなーれ、よくなーれ。

母はこれに見覚えがあるはずです
私が、やってきたからです。
「娘パワー注入だわ」とか言って。

祖母の脈はよくはなりません。
未だに低迷しており、いつ0になって、ピーーーと無情に音が鳴ってもおかしくはない。
なので、母に道を明け渡しました。
別に、死ぬなら死ねばいいと思うなら、近寄りもしないでしょう。それだけの心の溝がありました。

けども、母は祖母の手を取りました。
まだ生きてる。
まだ生きてるんだなぁって。泣きながら。

翌日、何故か回復したと連絡が来ました。
次は葬式かもしれないね。


そんな重荷を抱えながら、愛したいのに愛せず、愛したいのに愛していないと突き放された母は、私に構わず何回も死にたいと言ってきました。
早く死んで楽になりたいと。
父親の配偶者への暴言ばりに心理的虐待ですが。

さて話が私側にシフトしますが
人間にとって大事なものって、『生き甲斐』以外はなんだと思いますか。
私は『自尊心』だと思っています。

まあニャンコ先生も大いなる活躍をしてくれましたが、父母にとっての最たる生き甲斐は『子ども』です。
「親」という役割を壊滅的に知らない母と、理解していても上手く扱えない壊滅的ド下手の父でも、『この子達の親であろう』とはしていたのです。
まあ壊滅的に出来てないんですけどね。
それが分からないほど親不孝者にはなれないね。

母は障害者ですから、周りからの期待に充分に応えられません。
PTAを免除されてずるいとか。
義姉さんだけ食事の準備に参加してないのは不公平だとか。
そういうとこでも私は愛想の仮面で塗り替えてきました。「お母さんのために動ける気立てのいい娘さんですね」。

父も父で「家事は女がするもの」から全く抜け出そうとしないため、母が律儀に誕生日を祝っても碌にお礼も言わない。
誕生日に好物が出てくるのはそんなに当たり前なのでしょうかね。
自分の誕生日を祝ってくれない母家族の記憶から、どんな想いがあって、誕生日を迎える人へ好物を作って出したでしょうね。結構手間が掛かるものばかりでしたが?

母はご飯を食べるのが好きで、料理をするのも好きですが、ヘソ天で寝てる野郎共を鬱陶しいと思うくらいはしてきたのです。

「ありがとう」
そんな言葉すら出ない食卓で、母が頑張るには限界がありました。なんたって4時間フルマラソン後(仮)ですからね。
だから、『これが美味しかった』とか『また食べたい』とか『これにはこの具材が入ってると、私が嬉しい』とかで
「まあ……娘のためなら……」程度にはなっていたのです。立位保持が出来なくなってからは無理でしたけどね。

「女がするんだから当然」が抜けてないない父や、我関せずの次男の冷たさの中では
母は温かさを見出せない。
……まあ、だから私ばかりにお役が回ってきてしまって、依存されて、私に限界が来たのでしょうけれどもね。


さて。
追記はするかもしれませんが、今はこのくらいにして。超疲れた。1万文字行きそうなんだけど。

色んなものを背負って、それでも親をやろうとして、結果的にやっちゃいけないことをしてしまって、私は壊れましたが。
これでもまだ。『そんな親』と言いますか?

私が愛するに足りない、不出来な人間だと。言いますか?

悲しみってのは連鎖します。
虐待も連鎖します。
そんなものは私で終わらせたい。
なら、丸ごと包みたい。

夢物語だと言いますか?

でもね私、彼らに制裁が下っても嬉しくないのですよ。
わだかまりを乗り越えて、少しでもいいから笑って死んでいけたなら。

夢物語にしないために、動いているのです。
無理だ無理だと言う人、そこで傍観していなさい。
きっと叶えてみせる。

死は逃れられない現象です。
それはいくら私でも解放してあげられません。
でも死の間際に「悪くなかった」と思ってもらうくらいは。

人の死に、せめて満足という安らかな眠りを。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?