徒然なるままに三浦春馬について書き留める その1
はじめに
2020年8月18日。
三浦春馬が亡くなって1ヶ月が過ぎた。Twitterのタイムラインでは月命日というワードが頻繁に見られた。彼がMCを担当している番組はTwitterで空の写真を上げてコメントをくれた。
正直、もう一か月経ったとは信じられない。いまだにあの日のことは覚えているし、8月になっても1日に何回もTwitterで彼の名を検索してしまう。もはや習慣だ。
それも悪くないな、と思ったりする自分がいる。それはなぜか。
なぜなら、彼のことを忘れたくないからだ。絶対に。
そして、私が、彼を忘れないために、彼の追悼として自分なりにできることはなにかを考えてみた。
私はインスタやTwitterで簡単な絵を載せてコメントを書いている。実家が教会なので初めは聖書のことを描いたりしていたが、好きなアニメについても描くようになり、旅の記録を描くようにもなった。
しかし、絵をしっかり学んだわけではないし、絵を描くのは好きだが、皆が口を揃えて上手という腕前ではない。自分自身が考える追悼とは少し違う気がする。
ふと考えが浮かんだ。
忘れずに書き留めておくこと。
これだ。
私は教員として働いており、時折、クラス通信、保護者や生徒向けの寄稿文を書くことがある。下手の横好きだが、もともと文章を書くことは好きだ。あーでもない、こーでもないと、自分の書いたものと格闘している時間は結構気に入っている。おかげで初任の時よりも文章が洗練されてきた(ように感じる) 。
最近、私が注目している2人の女性
女優兼監督・小川紗良さん、元SDN48でライターの大木亜希子さん、両名とも読みやすく綺麗な文章を書く。小川さんのアニメ評には新たな発見があるし、大木さんは最近小説にも力を入れている。年下だが、2人ともかっこいいし美しい。私の憧れだ。
憧れの2人のように文章を書く、という願いを込める意味も含めて、私は自分なりに三浦春馬の追悼を徒然と書き留めるにした。(以後、親しみを込めて春馬とする。)
文章を読めば、当時のことを思い出す。
思い出すことは忘れないこと。
忘れないことは追悼になる。
もしかしたら、これを読んだファンの方が共感してくれるかもしれない。
うんうん、春馬ってそうだよね。
いや、私が思う春馬はそうじゃないんだけど。
考え方が違っていても、春馬が好きな方が読んで、少しでも気が楽になってくれたらうれしい。
私はファンからすれば、ファンと名乗れないと思うし、すべてのドラマをチェックできてはいない、彼の舞台も1つしか観に行けなかった。
だけど「あの頃」の私は確実に春馬に励まされ、元気をもらった。
私の書く文章が少しでも彼の追悼になれば。
そう思い、書くことにする。
その日
その日は私の住んでいる地域は晴れていたように記憶している。コロナでの休校明けの学校が再開し、数週間。久々に部活の土曜練の日だった。
練習も終わり、いつも通り気をつけて帰るように声をかけ、別れた。家に帰り、昼食を食べて、車で買い物に出かけた。今日のメインは本屋さんだった。車から降りる前にTwitterを開いた。
驚いた。今でもあの見出しを見ると胸が痛む。あんな思いはもうしたくない。
Twitterは異様な光景だった。瞬く間に第一報が広がり、程なく自分のタイムラインにもその知らせが表示された。自分がその報を見たのは誰かのリツイートだったように記憶している。
「なんで?」「うそでしょ?」フォロワーさんたちのタイムラインがいつもと明らかに違う。同じ時に同じ知らせで皆が一同に絶句している。しかも特に三浦春馬でつながっている人はいないはず。漫画家さんや、人気のドラマクラスタさん、そしていつもお世話になってるフォロワーさんまでが嘆き、悲しんでいる。いつもと確実に違う。本人の名前を出していない人もいるが明らかに皆の話題は三浦春馬のことだ。
こんなことは初めてだ。このニュースを知る前の世界に戻りたい。切に願った。
少し経って、詳細を知らせるニュースが流れた。わたしは背筋が凍りつき、Twitterを開けなくなった。
「うわ・・・応援してたしこれからも本当に楽しみにしてました。本当にショックなのでしばらくTwitterから遠ざかります・・・聴きたくないニュースが出てくるのは予想できるので。テレビもなるべく避ける。どうにか出来んかったのかと悔やまれる・・・。」
こう呟いて数日Twitterを休止した。
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