見出し画像

新麻聡『巨人の国へ』

(投稿時より、原稿に修正、加筆等を施しております。ご了承ください。筆者)

1

 その封書を受け取ったのは、八月初めのある水曜日のことだった。自分のデスクで校正済みのゲラに目を通しているところへ、それは届いた。
 大振りの茶封筒。表の宛名は編集部気付で「福井郁夫様」とある。フェルトペンによる手書きだ。何気なく裏を返してみて驚いた。そこに記されていたのが日本推理小説界の、ある重鎮の名だったからである――だから、ここは仮にあーる先生としておこう――。書かれてあるのは、その筆名のみで、所番地の表記は省かれていた。
 R先生は御齢おんとし七十幾つと聞くが、今尚、矍鑠かくしゃくとした紳士である。デビュー当初から、一貫して「本格」にこだわってきた探偵小説の鬼だ。とはいえ、そのお人柄はいたって穏やかで、いつも柔和な笑みを湛えられている。私も何度か担当に就かせていただいており、直近の仕事は、この春に上梓した自選短篇集の編集だった。
 消印は前日の日付で、東京中央郵便局とある。中を検めると、出てきたのは枡目のある四百字詰原稿用紙だった。数枚を束ねてクリップで綴じ、おもて面を内側にして二つ折りしてある。R先生は、今や文筆業のあいだでも主流になっているワープロ、パソコンといったツールは使用していない。作品の執筆はもっぱら、原稿用紙に万年筆で手書き、という昔ながらの方法を採っていた。ちなみに、携帯電話もお持ちではない。
 それにしても、と首をかしげた。先生はいきなり、何を送ってこられたのだろう。
 今現在、わが東都とうと幻窓社げんそうしゃ文芸編集部で、R先生に依頼している原稿はない。ないはずだ。何か新案を思いつかれたのか。しかし、大家のほうから自らの意志で作品を送ってよこすというのは、異例の極みである。こちらから玉稿をお願いしていたというならいざ知らずだ。
 広げてみる。
 ん? と思わず声が出た。前述したようにR先生は万年筆を使うのを常としているのだが、手許のそれは、桝目の文字がすべて鉛筆書きで埋められていたのだ。何か釈然としない。
 次いで目に止まったのは、原稿用紙と一緒に同封されていた、これは小振りの定形郵便用封筒だった。表も裏も、何も書かれていないさらなもので、口は封をされておらず、中に便箋が畳まれているのが見えた。引き抜いてみると、そこには次のような文章が、これも鉛筆によって記されていた。振ってあるルビは〝ママ〟である。

 緑陰の濃き候、如何お過ごしでしょうか。
 例のお約束していた連載の初回分が、ようやく上がりました。早速お届け致します。
 辛うじて貴殿のご所望に添うことができた、と信じております。僅かな日数を残して、なんとか締切に間に合い、胸を撫で下ろしている次第です。同時に、次回分以降の展開も鋭意熟考中です。瑕疵かしもさぞ多かろうとは存じますが、何卒、宜しくお願いします。
 連絡はまた追って致します。詫び事はその折にでもまた改めて。R拝

 なんだこれは。お約束していた連載? 貴殿のご所望? 僅かな日数を残して? 一瞬、記憶障害かと自分を疑ってしまった。しかし、そんなわけはない。念のため編集長に問い質してみたが、やはりR先生にお願いしている原稿はないと言う。
 ともかく中身を読んでみようと、再び原稿を手に取って、今度は声を出せなくなった。原稿の枚数がたったの四枚だったのである。今更のように気づく自分にも呆れたが、これはいったいどうしたことか。長篇の梗概でもあるまいに。
「連載」というからには雑誌の連載だろう。うち宛てに送られてきたのだから、そう考えて間違いない。東都幻窓社で新聞は発行していない。とすると、これは異常な短さと言えた。一般に、小説雑誌へ連載ものを掲載する場合、その一回分の枚数というものに基準はない。ケース・バイ・ケースである。が、私は経験から知っていた。当社発行の季刊推理小説専門誌〈幻窓ミステリ〉において、R先生の標準仕事量は、およそ三十枚から五十枚であることを。つまり、今までの例から鑑みて、この「初回分」の枚数は通常の一割程度、ということになるのだ。
 さらに解せないのは、この「小説」の内容だった。――これは、はたして小説か。目を通し終えた私は、まずそこに疑問を懐いた。
 ある一つの光景を説明しているだけなのである。それも、各センテンスの結びが現在進行に基づいた終止形で統一されている。時制をことごとく「今」に置いているのだ。視点こそ一人称だが、およそこの文体は小説らしくない。いわば時の止まった一枚の「絵」を見ているような印象である。
 それに、この「小説」には「引き」がない。これが連載の第一回目だというなら、次号の第二回目を早く読みたいと読者に思わせるような「引き」がなくてはならない。それが連載小説というものだ。ところがこの文章には、次を待ち望みたくなるなんの魅力も感じられない。
 それとも、これは「第一回」の冒頭の一部であり、また数日すれば、同じ回のつづきが送られてくるということだろうか。いや、それはない。先のR先生からのぶみには、「連載の初回分」が「ようやく上が」った、とある。「締切に間に合い」とも書いている。この五枚足らずの原稿が、「連載第一回」のすべてなのだ。
 注意を引く点はほかにもあった。それは原稿用紙が、よく文具店で見かけるような市販の品だったことである。R先生の通常使用している原稿用紙は、某文具メーカーに特別発注している誂えものである。紙は上質のA4判で、各用紙の左下隅には筆名が印字されている。また、枡目こそ同じ四百字詰めだが、振り仮名用の罫線や中央の折りしろはない仕様だった。それが今回に限って、安直すぎるほど当たり前なものが使われているのだ。
 問題の原稿の全文は、次のようなものだった。

   ひとがたの幻影 第一回

 首を左に傾けて、わたしはある光景を見ている。
 その中心となるものは、はっきりしている。人影である。一人の男性が、前方に立っている。光源が人物の後ろにあるため、わたしはその姿をシルエットとして捉えている。その影の佇まいが、目に映る主なるものである。もっとも、人物のまわりの様子も少しは見て取れるため、立っている場所に関しても、若干の想像を試みることはできる。
 洞穴どうけつである。
 岩に囲まれた洞窟だ。外に白く空が見えるから、たぶん切り立った断崖の横っ腹にでも開いているのだろう。そんな、人の手を加えられていない天然のトンネルである。その入口をくぐったすぐのあたりに、男は佇んでいる。
 洞穴が岩に穿たれている――土を掘ったものでもなければ、板で内部を囲って補強されているわけでもない――と思われるのは、その入口の形がそう見せるからである。
 男性は、洞穴の中に数歩、足を踏みいれた位置にいる。すなわち、入口に背を向けた格好である。わたしは男の姿を、ほぼ正面、正確には左手斜め前に捉えているので、自然、その背後に入口を見ることになる。外の明るさに対し、洞穴の中は暗い。したがって、入口の輪郭は男の姿同様、くっきりとしたシルエットとして浮かび上がる。その有様を観察する限り、洞穴は岩に囲まれた天然の造りである。見た目の質感がゴツゴツしているのだ。天井部分からして平らではない。三角屋根を内側から見るような傾斜がある。それはおろか、頭上には鍾乳石のように垂下する岩さえ認められる。男の立っている足場も、はたして平坦であるかどうかは定かでない。穴の内部が、秩序立った規則性を持つ隧道すいどうになっていること自体、大いに疑わしい。彼の後方に大きな岩の塊らしきものがでんと居座っており、地面の様子が明確でないのである。
 男のシルエットからも、若干の情報を得ることはできる。
 年齢ははっきりしないが、おそらくは成人である。首が太く、肩幅も広くて、体ががっちりしている。肩のシルエットから、背広かコートでも着ているように窺われるが、ことによると首が太く思えるのは、マフラーも巻いているためかもしれない。顔は若干ふくよかで、豊かな頭髪をきっちりと七三に分けている。輪郭に分け目らしい窪みが見えるので、それと判る。
 こちらの視点から見ると、男は左側に向かって半身はんみの構えを取っている。言い換えれば、洞穴の奥へ体を向けている。ただ、胸を大きく反らしてでもいるのか、右肩がこちらからは見えない。そうしながら、洞窟の天井でも観察するように、斜め上方を見上げている。
 わたしは彼の左腕を辿り、すでに袖の先へ達している。

 原稿を机上へ戻してから、最初に行なったのは電話を掛けることだった。プッシュした番号はほかでもない、都内にあるR先生のご自宅である。
 応じて出たのは先生の一人娘、F嬢だった。先生は十数年前に奥様を亡くされていて、以来、お嬢さんとの二人暮らしである。私は一、二度F嬢と電話でやり取りしたことがあり、声は聞き知っていた。都市銀の行員という職業ならではの丁寧な口調が印象に残っている。身分を名乗り、先生はご在宅でしょうかと問うと、先方ははあ、と言ってからしばらくを置き、今ちょっと、と覚束ない返答をした。
「ご不在ですか」
「……申し訳ないのですが、父は、ただいま出ておりまして」
「あ、左様ですか。では、何時頃お帰りになりますでしょう」
「ええそれが、実はちょっと、旅行へ……」
「りょ――」予想外の答えだった。「ご旅行ですか。どちらのほうへ?」
「ええと、それがわたくしどもにも、はっきりとは……」
「はっきりとは?」判らない、ということか?
 ここで脳裏に、一つの言葉が浮かんだ。
「あ、いわゆるそれは、〈お散歩〉でしょうか」
〈お散歩〉というのは、長きに亘り出版業界の一部で囁かれている、ミステリ作家・Rのある習癖のことだ。いつの頃からか、先生は執筆の合間を縫って、時折一人で旅に出るようになった。それはそれで結構なのだが、困るのは家人にも仕事の関係者にも、一切行く先を告げずに発つことだった。これはうっかり言い忘れたとか、旅程を組まず、足の向くまま列車に飛び乗るからというものではなく、明らかに意図的であった。探されたくない、連絡をつけられたくないという心理、ようは雲隠れである。あげくは数日後にひょっこり帰ってきて、どこへ行ってきたとも口にせず、気づけば何食わぬ顔で日常に戻っている。逗留先は毎回異なり、その地は持ち帰った土産物から窺い知ることができたという。あるときは東北の温泉地の饅頭であったり、またあるときは南国名産の焼酎であったりした。ごく親しい一部の関係者のあいだでは、いつしか先生のそうした習癖を、親愛と幾ばくかの皮肉を込めて〈お散歩〉と呼ぶようになっていた。
 話には聞いていたが、その事態に直面した経験はかつてなかった。ついに自分も伝説の証言者になれたというわけだ。ならば仕方がない。私は相手の返事を待たず、
「なるほど、承知しました。では、お帰りになりましたら、一度ご連絡をいただきたいのですが」
 もう一度社名と自分の名を告げ、非礼を詫びて静かに受話器を戻した。令嬢は恐縮そうに何やら呟いていたが、よく聞き取れなかった。
 しかし、と受話器に手を置いたまま考える。連載ものの原稿をいて送っておきながら、間を置かず旅行に発つ? なんとも不自然ではないか。まあ、変わったところもあると聞くR先生だから、こちらの理解を超えた行動に出るのも頷けることかもしれないが――。
 いや、理解を超えているのは、それよりもやはりこの原稿だ。なぜ送られてきたのか。そして、この「作品」は一体全体なんなのか。Rといえば、言わずと知れたミステリ作家――それも、いわゆる本格一筋の人である。となれば、も本格ミステリなのだろうか。
 私はここで再び受話器を上げた。掛けた先は、懇意にしている他社の編集者だった。勤務先の直通へコールする。お互いミステリ畑で長く仕事をしており、ときには共通の作家を担当することもあって、ライバル会社とはいえ、今や気の置けない間柄になっている男である。
 かといって、すべてを明かすこともない。適当な理由をくっつけて、R先生の旅先を知らないかと問うてみた。
「例の〈お散歩〉かい。久しくされていなかったようだがな」
「ちょっと連絡つけたいんだけどさ、どう、見当つかないかな?」
「判らないなぁ……。というか郁夫いくおちゃん、それが〈お散歩〉のお散歩たる所以ゆえんじゃないか」
「今、R先生に原稿依頼はしてないの? 連載とか」いちばん確かめたいことをさりげなく訊いてみる。
「連載?」友人は笑って、「してないですねえ。たぶん今はどこの出版社も、R先生にはお願いしてないんじゃない? 五月に、きみのところで自選の短篇セレクション組んだばかりだろう。インターバル空けると思うがね」
 この原稿は誤送ではないか、と考えての探りだった。茶封筒の宛名は当社気付で自分の名前だったが、それを記す時点でR先生が思い違いをしていなかったとは限らない。しかし、少なくともこの男のいる出版社ではなかったようだ。私は心中を相手に気取られないよう、軽く礼を言って通話を切った。
 つづいて二、三箇所、同じような間柄の人間に問い合わせてみたが、結果は同じだった。
 窓外に目をやると、夏の空はこちらの気分を映してか、どこか精彩を欠いていた。
 どうにも不可解だ。奇妙な謎というものを扱ったミステリを時として見かけるが、今回の一件はまさにそれを地で行っている。収まりが悪い。一つ一つの事柄は一往の説明をつけることも可能で、一見完結しているかに見えるのだが、全体を俯瞰するとなのだ。エッシャーが描いた不可思議な建物のように。
 再び、問題の文章に目を走らせた。
 ――わたしは彼の左腕を辿り、すでに袖の先へ達している。
 最後のこの一行。これはなんだ?
 それまでの文は、特異な書きようではあっても、それなりに意味は通じた。頭にその光景を思い浮かべることはできた。しかし、この一文だけは異質だった。具象画が並ぶ中で、いきなり抽象画に出くわしたかのようだ。
 これがたとえば、「わたしの視線は」となっているなら一往の納得はできる。「わたし」は「彼の左腕を辿」って視線を下ろしてゆき、今は「袖の先へ」目を据えている、と読み取ることができるからだ。しかし、この文の主語は、あくまで「わたし」なのである。これをどう解釈したらいいのだろう。
 どこがほかの文章と違うのか、一つ気づいた。この文には、それまでになかった「動き」があるのだ。「時間」が存在している。「袖の先へ達している」のは結果だ。そこに行き着くまでに、「左腕を辿」るというプロセスがあった。過去が示されている。なぜ、ここへきて突然、作品世界は膨らみを持ちはじめたのか。
 この一文を、そのまま率直に読み解くなら、こういうことにならないか?  すなわち、この「わたし」とは、『ガリヴァー旅行記』の第一部に出てくる小人のごとき存在であり、男の肩から腕、さらに袖の先へかけて、急斜面を今まさに伝い降りてきたところなのだ、と。あるいは、自分はそのままで、逆に眼前の男のほうが巨大なのか。かの第二部に登場する、〈巨人の国〉の住人のように。
 だが、いずれにせよ、この解釈ではそれまでの文章と視点が矛盾する。「わたし」の目は、その人影を自分の前方に捉えているのだから。「わたし」は、いつの間に男の肩に乗ったのだろう――。
 と、不意に胸のうちで、何かがうごめくのを感じた。
 机上へ広げたままの原稿用紙に目が止まる。
 思わず、椅子を蹴って立ち上がっていた。まわりの同僚数人が何事かとこちらを振り返るが、照れ隠しの笑みさえ作れない。
 自分でも信じられなかった。ミステリ作家・Rによって書かれたその光景を、

2

 おそい昼食を取るため、私は一人、社屋を出た。陽射しを避けて足早に向かったのは、表通り沿いにあるラーメン屋だ。
 唐突だが、わが家の朝食はパンである。娘二人の提案によるものだ。妻もこれに賛同している。はじめにその話が出たとき、「朝は和食」を信条とする私はむろん意見の主張を試みたが、あえなく却下された。間もなく新世紀というこの時代、女三人を相手に家長の意を通すことは至難の業と言えそうだ。
 無味乾燥な塩化ビニールの袋から、四角いそれを二枚取り出し、並べてトースターに入れる。北の大地をかたどった枠の向こうに草原の風景が覗けるという、なんともまあ粋なデザインのイラストが描かれた黄色い容器を開け、焼き上がったものにその中身をガリガリと塗りつけて、事務的に口へ運ぶ。途中、サラダという名のレタス盛りを黙々とんで、単調な時間をやり過ごす。口内の渇きを癒すのは、低脂肪乳とかいう代物だ。時折、別皿でハムかチーズも添えられるのだが、これはパンに挟んで食せということらしい。面倒なので別々に頂いている。そんな朝を迎えるようになって、もうかれこれ五、六年が経つ。
 いつだったか、そんなふうに編集部の女子社員へ話して聞かせたら、「福井ふくいさんて本当に洋食がダメなんですね」と笑っていた。洋食が嫌いというわけではない。オムライスには目がないし、レアステーキなどは喜んで食べる。ようは米飯でないと駄目なのだ。
 というわけで、昼は当然、米食を選ぶ。出先で食事を取るとき以外は、もっぱらこの店を利用していた。今どき珍しい道産子どさんこラーメンの店だが、昼の二時までは日替わり定食をやっている。飯屋はほかにもあるけれど、どこよりも安価に上がるのが助かる。もちろん麺類も嫌いではないが、米が食べられるならそれに越したことはない。
 入口のサッシュ戸には大きく、アイヌ民族の男女が版画タッチで、真っ赤な蝦夷地の型をバックに描かれている。暖簾を払ってガラス越しに覗いてみると、ランチタイムを外したのが幸いしたか、店内は空席が目立っていた。ぶり返すようにふと湧いた先刻の不思議を頭から追いやり、からからと音を立てて戸を引く。
 クーラーの涼風で人心地がつき、奥へ目をやると、カウンター席の隅に見知った横顔があった。例の、私のぼやきを聞いて早合点した後輩、本山もとやま沙英さえだ。肩までの黒髪を頭の後ろで一つに束ね、何やら器と格闘している。しかし若い娘の姿をこの店で見るとは珍しい。それも一人だ。
「おやこれはまた、ひょんなところで」
 横に立ち、声を掛けてやると、本山はこちらの顔を一瞥するなり天を仰いだ。
「あー、もう、なんでなの? 誰にも見つからないと思ったのに」
 今どきの女性とはいえ、やはりそれなりのはじらいは持ち合わせているようだ。
「僕はここの常連なんだよ。お生憎さま」
 店主に定食を注文し、私は同席の許可を得て隣に腰を下ろした。彼女の本日のランチは――冷麺か。
「今月ちょっと、ピンチなもので」
 問いもしないのに、言い訳をしている。
「きみ、いつもはお弁当じゃなかったっけ? お母さんお手製の」
「ええ。それが、母は昨日から旅行に行っていて」
 主婦仲間と韓国だという。
「じゃあ自分で作ったらいいじゃないか」
「……女子ジョシの朝は貴重なんです」
 解らないではないが、時間に追われるのは女の子に限ったことでもあるまい。
「食とアカスリの旅、ですって」
「ほう。そういえば、うちも今、行ってるんだ。カミさんじゃなくて娘だけどね、上のほうの」
「お嬢さんも、ソウルに?」
「いや、たしか、イタリア……だったかな」
「わあ、いいなあ」
「そうそう。話を聞いた下の娘が、『〈長靴ブーツの国〉ね』って言ったんだ。だから、間違いない」イタリアは国土の形が、見ようによってはロングブーツを想わせるのだ。
 スープだけになったガラスの器を脇へやり、本山は両手で頬杖をついた。夢見るような表情だが、海外旅行を羨んでいるのか、満腹感に浸っているのか、そこは定かでない。
「……しかし、妙に旅行の話がつづくなあ」
 思いが、そのまま声に出てしまった。
「何がです? ――あ、そういえば福井さん、さっきはどうしたんです?」
 質問に飛躍があるが、どこか感じるところがあって、編集部で目撃した私の不審な挙動と結びつけたのだろう。私は運ばれてきた定食に箸をつけながら、午前中にあったことを聞かせてみた。
「――というわけで、ことの次第を、すぐにでもお訊きしたいんだが、〈お散歩〉となると捜しようがなくてね」
「ほかの人たちは、どう受け止めているんでしょう」
「編集長をはじめ、うちの人間は全員、よかろう組だよ」
「よかろうぐみ?」
「帰ってくるのを待ってからでもよかろう組」
 後輩は大きな目をパチクリさせ、微笑んだ。
「全員じゃありませんよ。わたしは違います」
 心強いお言葉だ。
「確かに急ぎの用件ではないしね、僕も最初は、そうするほかないと思っていた。でも、何か妙じゃないか。据わりが悪いというか、どうも落ち着かない。だから一刻も早く先生を見つけて、スッキリさせたいんだ」
「ですよね……。ケータイもないっていうし。じゃあ、新聞に尋ね人の広告を出してみる、というのは?」
「ああ、その手があったか」
「尋ね人っていうより、R先生本人への呼びかけ」
「でも、早くて明日以降になるな、全国紙に載るのは」
 食事を終え、私は食後のお茶ならぬコップの冷水をのどに流し込む。本山は、そんな人の顔をまじまじと見て、
「で……」
「ん?」
「そうすると、さっきの、あれはなんだったんです?」
「ああ……」
 そうだった。追い討ちを掛けるように、謎が謎を生んでいるのだ。しかし、信じてもらえるだろうか。
「僕ね、その『小説』の中の光景――岩の洞窟と、そこに佇む人の姿に、見覚えがあるんだ」
「見覚え?」
「というか、これとまったく同じものに出合っている、そんな気がするんだよ」
「その原稿を読んだのは、今日が初めてなんですよね?」
「もちろんさ。なのに、どういうわけかんだ」
 嘘でも誇張でもない。あのあまり生産的とは言えない空想に耽っているとき、突如気づいたのだ。
「とはいえ洞窟なんて……、幼い頃からの記憶を辿ってみても、思い当たる節はないんだが」
 私は東京生まれの東京育ちで、いわゆる故郷、田舎というものがない。強いていえば、現在住んでいる界隈が故郷ということになる。両親もそれは同様だった。
「親父は職人で、旅行に連れて行ってもらったことなどなかったし、林間学校というのも違う気がする」
「――既視感デジャヴ、ってやつですかね」
 それまで経験したことがないのに、あるように感じる心理状態のことだ。その現象なら、時として自分にも起こることは自覚していた。しかし――
「疲れているときなんかに、なりやすいとも聞きますよ。福井さん、このところ残業つづきで、働き詰めだったでしょ」
「疲れてなどいないよ僕は。そういうのとは感じが違う。確かに知っているんだ。どこかで、その男と出会っている。そいつは、こっちの視線には気づいていないようなんだけど、僕のほうは、しっかりと見ている。……どこか、ごく身近な場所で」
「身近な場所?」
「んん、なんかこう、日常の中で、見たような気が……」
 言いながら、首を傾げてしまう。
「いやいや。とても日常的なシーンとは思えないんですけど。洞窟なんでしょ? 岩に囲まれた」
 そうなのだ。「あれー? おっかしいなあ」
「やっぱり疲れてるんじゃありません?」首を傾け、冗談とも本気ともとれる口調で言ってくれる。「それこそ一度骨休めに、旅行へでも行ってきたらいかがです?」
「働いているほうが性に合ってます。――失礼するよ」と断わって、煙草を咥えた。
「その洞窟って、たとえば日本のこの辺にあるみたいだとか、見当つかないんですか?」
「切り立った断崖の横っ腹に開いているらしい、という記述が原稿にあったが、言われてみればそんな気もする。ひょっとしたら、海の近くなのかもしれないな。でなければ山岳地帯……」
「海の近くなら、岸壁とか? じゃあ、どこかの島ということも考えられますね。そうか、何も日本に限ることはないですよ。外国かもしれないんだ。うんうん」
「僕ねぇ、生まれてこのかた、海外って行ったことないんだよ。そもそも、飛行機に乗ったことがない」
 彼女は口を開けたまま、しばらく間を置いた。
「……だったら、映像だというのは」
「映像?」
「映画とか、ビデオとか、その類いですよ。『身に覚え』でなく『見覚え』だって言うんなら、むしろコレじゃないですかね。ほら、日常的だし」
「そうか。んん、だけど……映画は、あまり観ないなあ。本は好きで、昔から読んでるけど」
「案外、『獄門島ごくもんとう』とか。それとも……あれ?」と人差し指を口許に当て、「インディアン島って、洞窟ありましたっけ」
「両方とも、映画のほうは観てないね」
「映画に限らず、映像なら、なんでもいいんです。写真でも。それこそ、テレビだって雑誌のグラビアだって、日常の中で目にするでしょう?」
「うん、まあそうだけど」
「それに、その男の人は福井さんの視線には気づいていないらしいって、さっき言ってましたよね」
 人影がこちらへ顔を向けず、斜め上を仰いでいるように察せられるのが、その理由だった。
「それだって、映像や画像だとしたら当たり前ですよ。相手は撮影カメラを前にした被写体――出演者かモデルなんですから」
 なるほど、そのとおりだ。
 では、どこかでそんな映像を目にしていたのだろうか。しかし私は、たとえばテレビでドラマなどはまず観ない。バラエティーと称される類いも同様だ。スポーツは時として観戦するが、とくに贔屓のプロ野球チームがあるわけでもないので、本当に時として、である。サッカーに至ってはルールが判らないので点ける気も起きない。ほぼ毎日視聴している番組といったら、全国のニュースと天気予報くらいのものだ。
 ビデオも映画鑑賞と同じことで、まず自分でレンタルしてくることなどない。では雑誌のグラビアか。しかし、水着姿の女の子というならともかく、背広を着た男性のグラビアなどに目が行くものだろうか。男性ファッション誌という考え方もできるが、そんなものを手に取るのは、そもそも私にとって日常的行為である。
 そこまで語ったところで、思い出した。
「これはついさっき気づいたことなんだが、もしこの記憶の正体が映画のワンシーンだったのなら、僕は首を斜めに傾げさせるかどうかして、そのスクリーンを見ていたことになる」
「え? なんですかソレ」
「もしくは、スクリーンのほうが傾いていたかだな。つまりね、その記憶にある光景全体が、少し横に倒れているんだよ。男の影も洞窟の穴も、すべてが斜めになって見えるんだ。頭の中でね」
「スクリーンがナナメっていたって、映写機がちゃんと立っていれば、映像はそのままじゃないですか?」
 おお、なかなか鋭いことを言う。しかしそう指摘した当人は、鳩が豆鉄砲をくらったような顔だった。
「そうか。だったら、テレビ画面のようなものかな」
「待ってください。じゃあ、もしですよ、それが映画の一場面ではなく、本当に福井さん自身の実体験だったとしたら」
 ――あ。このあと、このがなんて言うか、判るような気がする。
「福井さんは、そこに倒れていた、ということになりませんか? 足元の岩か何かに凭れかかって」
 ほうら、やっぱり。――と私は思った。

 社へ戻ってから、せがむ本山に件の封書を見せてみた。
 若き編集者は原稿を手に取り、目を走らせる。編集部室の一隅で、こうして応接セットのテーブルを挟み、額を突き合わせている図が、周囲の目にはさぞかしまともな打ち合わせの場面として映っていることだろう。まだ食休みの時間内であるとはいえ、やはり後ろめたい。自然、交わす言葉も小声になってくる。
「ふーん。確かに新連載小説の出だし、という感じはしませんね」
「文体が、脚本のト書きみたいだろ」
 つづいて、彼女は定形封筒に入った添え文にも目を通す。
「文字は、R先生のものと見て間違いないわけですね?」
「いつもは万年筆なので、ちょっと感じが違うけど、ご自身の字だな。筆圧が弱いのはそのせいか。――なんでそんなことを?」
「いえ、とくに意味はありません」
 そう答える本山だったが、筆跡に目をつけるあたり、彼女らしいと言えなくもない。聞けば大学時代は、ミステリ研究会に所属していたという。それらしい発想が、なんとも微笑ましい。ニセモノでも疑っているのか?
 ところが、ここでミステリマニアは、だしぬけに暴走を始めた。すっくと立ち上がって原稿を指し、ただでさえ高い声をさらに一オクターブ上げて、
「もしかしてコレ、暗号なんじゃありません!?」
「あんごう?」
ですよ。ああ、そうだ! それしかない。これで合点がいくっ」
 華奢な躰を仁王立ちさせて、宙を凝視している。さっきの自分を見るようだ。
「ちょっと、あの、本山君?」
 落ち着かせようと、中腰になって両手をかざした。その手を取って、彼女は押し殺した声で叫ぶ。
「これはR先生からの、なんらかのメッセージなんですっ。これを解けば、すべての謎が謎でなくなる。今まで不可解と思えていたことが――ああこれぞ本格ミステリ――すべてパズルのピースのようにピタリと填まるのよ!」
 最後のほうはもう日本語が怪しくなっている。気がつくと、私たちは二人して立ち上がっていた。手を取り合って。
 異様な空気に、編集部室内の全員がこちらを窺っている。昂奮する後輩を、なんとか席に着かせた。
「これは何かのゲームなんですよ。暗号を送りつけて、それを解けば――たとえば先生はミステリに関する何かを企画なさっていて――その進行や編集、出版を委ねてくださるとか、そういうことなんじゃないですか? だから誰かがそれを解くまでは、どこかへ雲隠れしている、というわけです」
 ずいぶんとまた跳んだ解釈である。
「じゃあ」と、私は編集者仲間の名を挙げ、「彼との電話は?」
「言うまでもありません。とぼけているんですよ、その人。向こうも同じ条件で、この原稿を手にしているはずです。そして、こちらよりも先に、これが暗号であることに気づいたんですね。知らぬふりして出し抜くつもりなんでしょう」
 本山は不敵な笑みを浮かべ、一人何度も頷いてみせた。

3

 私は『ひとがたの幻影』をコピーし、自宅に持ち帰った。本山の言葉をそのまま鵜呑みにしたわけではむろんなかったが、いわゆる藁にも縋りたい心境ではあった。いつなんどき光が見えてこないとも限らない、常に手許へ置いておくのが賢明だろう、と判断したのだ。
 夕食前にひと風呂浴びた。湯槽に躰を沈めて、んん、と声を洩らす。考えてみれば、こんな早い時間に風呂に入るのも久し振りだ。このところ数日間は、まさに奔走の日々だった。某遅筆作家の原稿をなんとか形にさせ、時限ぎりぎりに校了したのがこの日の朝のこと。なんとか目処が立ち、ひと息ついたところへ飛び込んできたのが、あの封書だった。
「暗号か……」
 呟いてみる。やはり現実離れしているように思えてならない。それこそ「ゆんでゆんで」ではないが、少年探偵ものにでもありそうな展開だ。私は笑みとともに大きくため息をついた。おそらく、動因は原稿の最後に書かれていた例の一文だろう。抽象画めいた、何かを暗示するようなあのセンテンスが、あの娘に暗号なんてものを連想させたのだ。
「わたし、コレ、暗喩型じゃないかって思うんですよ」
 あれから、本山の口調はさらに熱を帯び出した。
 暗号とひと口に言っても、いくつかのタイプに分類できる。基本的な方法として挙げられるのは、文章を一字単位で分解し、意味のない文字の羅列に再構成したものや、元の文字を記号や数字、ほかの文字に置き換えたもの、一つの文をほかの文章に紛れ込ませたものなどである。
 彼女の言う「暗喩型」は、これらと性格が異なる。伝えたい事柄を何か別の形に喩える、というやり方だ。比較的よく見られるスタイルと言えるかもしれない。私も古今東西のミステリを専門に扱う出版社の一編集員として、その程度の知識は持っていたので、相手の言いたいことは即座に呑み込めた。
「ししがえぼしをかぶるとき、の類いかい。そいつは『寓意法』っていうんだ」
「そう、それそれ。――福井さん、こんなのどうです?」
 何を思いついたか、本山は、やにわに手帳を取り出し、考え考え何事か書き込んだ。一つ頷き、それをこちらへ見せてくる。覗いてみると――

 今最大なる影のもと 二本のつるぎを交わすとき 緑の貫くは黄色おうしょくの矢 西の穿孔せんこうに我ら集わん

 ご丁寧にルビまで振ってある。
「即興で作りました。どんな意味か解ります?」
「なんで文語体なんだ」
「いや、そういうものでしょ? 暗号って」
 静寂が二人を支配した。
「わたしたちにとって、最も大きな影といったら、さてなんでしょう」
「……なんだろね」
「夜ですよ。つまり、地球の影。で、その前に『今』とあるんだから、最初の段は今夜、ということになります。次の『剣を交わす』、これはつまり十字を描くわけだから、十時という洒落です。さらに『緑の環貫くは黄色の矢』ですが、この環というのは、JR山手線やまのてせんを指します」
「環状線ならほかにも、たとえば東京都内に限定したって、大江戸線おおえどせんなんか一種の――」
「そのために『緑の』と冠してあるんですよ。山手線のカラーは緑、でしょ?」
「ま、確かに」
「したがって、『黄色の矢』というのは総武線そうぶせんです。ね? で、その矢が貫いて穿うがたれた、西側のあなといえば」
「……新宿しんじゅく?」
「正解っ。つまり今夜十時、新宿に集まろう、というこれはメッセージだったわけです。ね、スゴイでしょ」
 なんとまあ強引な、ローカルの色濃いろこき暗号であることよ。細かいことを言えば、新宿ではなく代々木よよぎという可能性もあるが、それは、もはやどうでもよいことだった。
「この『ひとがたの幻影』も、この手の言葉遊びめいた――寓意法の暗号なんじゃないか、って思うんですけど」
「……なるほどね」
 私は寛大を装った。確かに、これという否定要素は見当たらない。
「ちょっと待ってて」
 私は思いついて席を立った。書庫へ向かい、一冊の文庫本を見つけると、それを手に編集部室のソファへ戻った。
「『闇夜のサーカス』……」
 本山は表題を声に出して読んだ。その下には小さく、「R短篇セレクションⅠ 幻窓推理文庫」とある。
「これは最近僕が担当した、R先生の自選短篇集だ。もう目を通してるかな?」
「あ。……と」
 まだらしい。編集者として勉強不足だが、それはあえて問わなかった。
「この中にね、暗号ものが入っているんだよ」
「へえ」
「デビューされて間もない頃の作品で、軽妙洒脱な非常に遊び心のある本格だ。同じR先生の書いたものだし、暗号解読するなら、参考になるんじゃないかと思ってね」
 ページを繰り、目的の箇所を開いて彼女に手渡した。
 タイトルは「白地図」。ある失踪した男の行方を追う若き女性の物語だ。知る人ぞ知る一篇で、先生がこれをられたと知って、私も嬉しく思ったものである。「『白地図』は私の中でもベストスリーに入ります!」とお伝えしたときの、先生の驚いたような笑顔は見ものだった。
 暗号は、その第一節の結尾に登場する。
「――これがまあ、相手の男性の居所をつきとめる手掛かりになるわけなんだが」
 それは、こんな一行だった。

 地と水は 二つ巴の かざぐるま 軸の許にて 君を待つのみ

「どう、解けるかい?」
「んんん。……宿題にさせてください」
 思いつきの暗号を解説するのとはわけが違うのだろう。
「福井さんは、これ解けたんですか? 初めて読んだとき」
「それは、まあ」咄嗟に見栄を張ってしまった。「……だいたい、思ったとおりだったかな」
「へー、やるじゃないですか。じゃあ、その調子で『ひとがた』のほうも、がんばってくださいね!」
「え、手伝ってくれるんじゃなかったの?」
「わたしはわたしの仕事がありますので。――宿題にしときます」
 自分から言い出しておいて……。
 おとなしげな容貌に似合わぬいたずらっ子めいた笑みが、湯気のあいだに浮かんで消える。私は上がり湯を掛けてフウ、と息をつき、浴室を出た。
 柱の時計を見ると、九時を回っていた。剣を交わすまでには、まだ少々間がある。
 ダイニングルームの食卓に着き、何はともあれ、ビールをグラスに注いで一気に乾した。湯上がりの一杯は格別である。決してアルコールは強いほうではないが、夕食前の晩酌は楽しみの一つだ。ビールで胃を活性化させてからいただく白米が、これまた格別に美味い。
 かぶの浅漬けをつまみ、グラスを口に運びながらも、頭に浮かんでくるのは、やはりあの文面だった。気になって仕方がない。席を立ち、居間に置いた鞄から複写原稿を抜き出してきた。
 ぱらぱらとめくってみる。
 人影が、洞窟内部の斜め上方を見上げている――そんな一文が目に止まった。原稿の、ほぼ最後の部分だ。ここがまた、どうにも意味深で見過ごせない。なぜ正面ではなく、上へ顔を向けているのか。この『ひとがたの幻影』が寓意法型の暗号だとするなら、これも何かの喩えなのか?
 洞窟というのだから、奥深い横穴だろう。出口があるか否かも定かでないような。
 出口のない穴。その入口に立って、頭上を仰ぐ。
 何かをつかんだような気がした。そうだ、やはりR先生は、どこか他社で新連載を依頼されていたのではないだろうか。その先生が、出口のない穴のとば口に立っている――
「書けなかった……?」
 新作の筆が進まない、と言いたかったのではあるまいか。
 つまりこうだ。新作の連載を引き受けたはいいが、どうしても良案が思いつかない。締切間際になって、ついにお手上げを宣言せざるを得なくなった先生は、その胸中を文章に込め――依頼元を勘違いして――うちへ送りつけた。
「……ダメだ」
 口許に持ってゆきかけたグラスをテーブルに戻す。洞穴の天井を見上げている、という描写を、途方に暮れている作家の姿と解釈したまではよかったが、あとがいけない。前提からして間違えている。R先生は、連載の初回分が上がった、と添え文に記しているのだ。書けなかったわけではない。
泡の消えかかったビールをのどに流し込むと、ため息ともおくびともつかない声が洩れた。
「どうしたのよ、さっきから。ブツブツ独り言ばかり」
 向かいの席で自分の食器を片づけはじめながら、妻が苦笑している。私はコピーを畳み、昼間の一件を掻い摘んで聞かせてやった。
「いや参ったよ。ブルーになるってのは、こういうのを言うんだろうな」
 娘たちの会話から聞きかじった表現である。
「そう言ってる今の顔は、ずいぶんと赫いわよ」
 憎まれ口を叩いて、妻はご飯をよそってよこした。晩酌はもうその辺にしておけ、ということらしい。
 テレビに目を向ける。ニュースが終わって、全国の天気予報をやっていた。明日、関東は高気圧に蓋われるが、東北から北は雨模様になる、とアナウンサーの声が告げている。
「あいつはどうした」
「もうとっくに食べて二階うえへ上がりました。模試が近いのよ」
 下の娘のことである。来年は高校受験だ。この春、大学の二年生になった長女のほうは、目下同級生数人と海外旅行中。父親も経験していない空の旅である。そのために、ここ半年ばかりは勉強もそっちのけでアルバイトに励んでいた。別に羨む気はないが、面白いわけもない。
 私は好物の焼き魚をつつきながらご飯を口に運び、ほろ酔い加減の頭で、取りとめもなく考えた。同行者は女の子だけよ、と強調していたが、その点は娘を信用している。イタリアとどこかをまわっての「グルメの旅」だそうだ。本山沙英のご母堂も「食とアカスリの旅」だと聞いた。こちらは韓国か。なんにしても結構なことである。
 現在いまの学生は恵まれている。自分が若かった頃も、年長の人たちにそう言われていたのだから同じなのかもしれないが、それにしたってレベルが違う。あの頃は、仲間との旅行などといっても、せいぜい夏に近場の海岸で一泊、二泊する程度だった。冬のスキーは、経験すらない。所帯を持ったのが就職して間もない頃だったので、新婚旅行も質素なものだった。いつかは金を貯めて海外へ行こう、と約束したのが昨日のことのようだ。この話は結局そのままになっている。貯めた金は娘二人のために遣われる結果となった。
「……それにしても」
 思考がひと巡りして、元に返った。脇へ放置したままのコピーに目が向かう。
 この光景は明らかに「見覚え」がある。文章を読めば読むほど、細かいところまで思い出されてくる。そうそうそのとおり、と頷いてしまうくらいに。だが、また一方で「身に覚え」はないのだ。まさに既視感めいている。いったい自分は、どこで「彼」と出会ったのだろう――。
 気づくと、茶碗を下ろし、箸を持つ手も卓上に置いていた。顔を上げると、妻が湯呑みを手に優しく微笑んでいた。私は、うん、と自分でも意味不明な頷きを返し、淡々と食事をつづけた。

 翌朝、駅を出て職場へ向かっていると、後方から名前を呼ばれた。明るい空によく通る高い声。振り向くと案の定、本山沙英だった。靴を鳴らして駆けてくる。なるほど、女子の朝は貴重というわけか。しかし、まだ始業に遅れる時刻でもあるまいに。
「どうしたの、慌てて」
「ハア……おはようございます。福井さん、歩くの速ーい」
「そうかな」
 肩を並べて歩道橋を上がる。
「どうです、解けました? 暗号」
「いやぁ、進展はないね。……『見覚え』のほうも」
 前の晩、床に就いてからも思考は堂々巡りを繰り返し、トンネルの出口を求めて何度も寝返りを打った。いつ眠りに落ちたのかもはっきりしない。
「ただ、そういえば今朝、ちょっと懐かしいものを思い出したよ」
 いつもの天気予報に目をやりながらトーストを齧っているときだった。白い意識の陰から、それは不意に顔を覗かせた。
「へえ、なんです?」
「大入道」
 子供の頃、一人で、よくこんな遊びをした。校庭の陽の当たる場所へ、太陽を背にして立つ。そして、砂利敷きの白い地面にくっきりと映し出された自分の黒い影をじっと見つめる。直立が主だったと思うが、そのときの気分で両腕を水平に広げたり、脚を大きく開いたりもしただろう。そうすること数十秒、時として一分近く、その姿勢を保ちつづける。それ自体は簡単なことだが、肝心なのは、頭でも肩の部分でもいい、影の任意の一点から決して視線を逸らさないことだ。
 やがて、頃合を見計らうと、心の中でゆっくり「いち、にいの――」と唱え、「さん」で一気に空を見上げる。
 一瞬の間を置いて、青く澄み切った空いっぱいに、白い大入道が現れた。それは、はじめ薄ぼんやりした輪郭をただ滲ませているだけだったが、なおも目をみはるうち、次第にその形を鮮明な姿へと整えてゆき、やがては信じがたいほど巨大な人形ひとがたとなって、白く視界を覆った。
 あれだけ影の黒が濃かったのだから、やはり夏か、陽春の頃だったのだろう。太陽にあぶられて熱くなった後頭部が、上を仰いで角度を変えることで、ひんやりと冷めてゆく。その爽快さを意識の隅に感じながら、私はよくそうして、独り恍惚としていた。
 もちろん、大入道などというのは幻覚である。網膜に焼きついた自分の影、その残像が見せる「幻影」だ。青い空に目を転じたとき、黒が反転して、その姿を白く見せるのだ。ただそれだけのことなのだが、それでも、この現象は私を夢中にさせた。少年の私にとって、それは科学的な説明などで片づけることのできない高次元の魔法、神が人間に仕掛けた壮大なたわむれだった。
「変な子供だったんですね」本山は感心したように言う。
「変かな。――や、そんなことばかりやってたわけじゃないよ? 普段は仲間たちと走り回って遊んでた。たまにポッカリ時間が空いたときなんかに、ときどきね。名もない、ただの一人遊びさ。……ずっと忘れていた」
「それが、その『覚え』だってことは?」
「いや、それはないな」すかさず首を振った。「アレは子供の影なんかじゃあないよ。いくつかのディテールが、そうでないことを示している。――それはそうと」
「はい」
「きみ、急いでるんじゃないの? 用事があるんなら、先に行っていいよ」
 慌てて走ってきたので、タイムリミットの迫った仕事でもかかえているのか、と想像していた。ところが、返ってきたのは思いもかけない言葉だった。
「え、違いますよー。わたし、アナタに用事があるんですっ」
「僕に?」
「はい。……ねえ、福井さん。例のアレ、リークしてみる気ありません?」

 編集部へ着くなり、本山は早速、『ひとがたの幻影』の原稿四枚と添え文とを、相手方へファックス送信した。
 話を聞いてみると、彼女の「用事」はなんとも意外なものだった。
「昨日わたし、最中区もなかく煉切町ねりきりちょうで喫茶店を営んでいる叔父のところへ寄って、福井さんのお話、聞かせてみたんです。こんな可訝おかしなことがあった、って」
「茶飲み話にされたか」と笑ってみせると、
「そしたら、どうも解けちゃったみたいなんですよ」
けちゃった。何が?」
「暗号」
「……あれ本当に暗号だったのか。え、解けた? 読んでもいないのに? きみの叔父さん、何者?」
「あの、それがちょっと妄想癖のある人でして……。それで、一度内容を確認したいので、送られてきた原文を見せてもらえないか、って言うんです。なんだか珍しく落ち着かない様子で、ファックスでいいから、なるべく早く、って」
 本山は私の携帯番号を知らず、昨夜は連絡を取りたくても取れなかったという。
 私の手元に送られてきたのは、R先生の手による原稿――著作物であり、私信である。これを――本山のような同部署内の人間にならまだしも――他人へ見せてしまうことには、むろん抵抗を覚えた。編集者としての著作権意識や、個人のプライバシーにも関わる秘匿本能が、私に一旦は待ったを掛けた。
 しかし、もしが本当に暗号――私へ向けてのメッセージだったとするなら、もはや著作物ではない、という見方もできる。勝手尽かってずくな考えであることは自覚していたが、解けたというなら、ぜひ拝聴したい。ええい、ままよと、私は先方の意向を汲むことにした。
 編集部にその電話が入ったのは、ファックスを送ってから、まだ間もない頃だった。まわりでは数名の同僚が机に向かっていた。
 受話器を取った本山は、何やら「うん、うん」と受け答えしていたが、不意に斜向はすむかいの私と目を合わせ、送話口を押さえた。
「福井さん。叔父からなんですけど、新聞社への広告依頼は、結局なさったんですか?」
「あ、そうそう」そのことがあった。「まだ話してなかったね」
 彼女からのアドバイスは、むろん失念していたわけではない。前日の夕刻、それを実行に移していた。ところが――
「妙なんだ。新聞社がね、渋るんだよ」
「渋る?」
「昨日、あれからAB新聞社に電話を掛けたんだ。用件を話して、活字にしてもらう文面を読み上げたまではよかったんだが」
「それを、断わられたんですか」
「そう。この広告は、しばらく掲載を待ってください、とこうだ」
「理由は……なんと言ってました?」
「それが、どうもはっきり言わない。ただ、申し訳ありませんが、と繰り返すばかりで」
 ほかにも二、三の新聞社に当たってみたが、対応は似たりよったりだった。わけが判らず、この出来事は宙ぶらりん状態のまま、頭の隅に追いやってしまっていた。
「ちょっと、換わってもらえます? ――2番です」
 本山はそう言って、通話を保留にした。彼女が復誦することで、電話の向こうへ会話の内容は伝わっていた。私は私用電話の後ろめたさを多少感じつつ、回線ボタンの〈2〉を押して受話器を上げた。
 簡単な挨拶を済ませ、「で、何か」と問うと、相手は間髪容れず、
「断わられたというのは、文面を読み上げて、すぐのことでしょうか」
 耳にも心地よい低音バスだった。
「いえ、すぐじゃあなかったですね。何やら少し待たされた、そのあとでした」
「どんな文面を、ご依頼なさったんです?」
「簡単なものです。ええと、『R先生 至急の用件あり 当方ご滞在先を存ぜず ご連絡乞う 東都幻窓社福井』。これだけですね」
 本山がデスクの島を回ってこちらへやってくる。何かと思っていると、大胆にも私が持つ受話器の外側に、黙って耳を押し当てた。
「R氏のご自宅の電話は、今判りますね?」
 切迫したような相手の声が耳を打った。
「ええ、それはもちろん」
「すぐに電話してください。たぶんまだ動きはないでしょう。朝刊にもなかったし」
 どういうことだろう?
「電話が繋がったら、こう伝えてください。先生の居所は判った、すぐに捜査員を手配してくれ、と」
 横から本山が、いきなり受話器を奪い取った。
「捜査員? 手配って……。先生に何かあったって言うの!?」
 今度は私が聞き耳を立てる番だった。洩れ出る声は、こう聴こえた。
「誘拐だよ。R氏は何者かに誘拐されていたんだ」

4

 それから三時間後、警察からの連絡で、我々編集部はR先生が無事保護されたことを知った。誘拐犯たちの潜伏場所が判ってからの捜査陣の対応は、まさに迅速を極めていた。日本の警察は優秀と聞くが、この巷説も伊達ではないということか。
 それにつけても気になるのが、本山の叔父貴はいかにして事態を察知できたのか、ということだった。すぐにでもそれを拝聴したかったのだが、この日は警察の事情聴取を受けたり、雑多な事後処理に追われたりしているうち一日が終わってしまい、結局それが適ったのは、あの非日常的な午後から丸一日が経った、翌金曜日の夜のことだった。
 退社後、本山沙英に連れてこられたのは、かの叔父が経営しているという小さな珈琲屋だった。普段なら乗換えで降りる駅を通り過ぎ、欠伸あくび二つ分のところで下車して、大福坂だいふくざかすずらん通りという長い商店街を抜けた。公園らしき広場が見える手前の角に、その店――《ねこした》はあった。
 店内はほどよく冷房が効いていた。暇なお店なんです、と彼女は笑っていたが、奥へ向かって並ぶテーブルには、ちらほらと数組、客の姿が見られた。釘はどこにも打たれていない。
「いらっしゃいませ」
 カウンターの奥から、白いレギュラーカラーのシャツに黒のエプロンを掛けた、痩身の男性が現れた。電話で聞き知った響くような低音の声は、まぎれもなく本山の叔父貴に違いない。私より若干、年下だろうか。見ればふっくらした目蓋も印象的な好男子だ。筆でササッと描いたような顔立ちは、どこか雅やかですらある。夏だというのにシャツは長袖で、ノーネクタイであるにも拘らず、身頃のボタンをいちばん上まで填めていた。
 勧められるままカウンターの席に腰掛けた。あらためて挨拶を交わしたあと、話題は自然、事件のことになった。マスターは浮かべていたアルカイックスマイルを引っ込め、ファックスで受信したものだろう、手にしていた『ひとがたの幻影』を静かにカウンターへ戻した。
「R氏の娘さんが電話に出た、と聞いて、まず引っかかったんです。F嬢は銀行員をなさっているんでしょう? 平日の昼間から自宅にいるというのは、ちょっと不自然ですからね。そして主は不在。ほかにも不審な点があって、最初に『誘拐』の二文字が頭を掠めたのはこのときでした。ほとんど根拠のない、妄想のレベルですが」
「それにしても、まさか犯人からの電話に備えて、お仕事を休んで自宅待機していたとは、思いもよりませんでした」
 出されたアイスコーヒーをいただきながらそう言うと、
「それを暗示するヒントは、ご自身も聞かれていたんですよ」
「え? ぼ……私が、何か聞きましたっけ」
「もう一つの不審な点です。お電話の際、先生が旅行へ出られたと聞いて、福井さんは『どちらのほうへ?』とお尋ねになった。それに応えて娘さんは……」
「ええと、たしか『それがわたくしどもにも、はっきりとは』、とかなんとか……」
 隣に座っていた本山が、あっ、と声を上げた。マスターは頷いて、
「R氏は奥様を亡くされていて、今は娘さんと二人暮らしなんですよね。では、『わたくしども』とは自分と誰を指していたのでしょう。結果論ですが、F嬢は失言されたんです。つい、傍らにいる捜査員たちを勘定に入れてしまった。彼女はおそらくそのとき、刑事と筆談を交わしながら、電話の遣り取りをしていたんですね。それで相手が福井さんだと判って、空言そらごとを返すよう促された」
「ああ……」
 悄然と正座するF嬢の、小さな背中が目に浮かんだ。向かう卓上には、録音機器を取りつけた電話機が置かれている――。
「昨日、一緒に送信していただいた添え文を目にして、妄想は確信へと変わりました。姪は『ひとがたの幻影』を暗号文だと言い張っていたわけですけれど、実は解読すべき暗号はもう一つあった。のほうも、R氏からのメッセージだったんです」と、添え文のコピーを手にし、
「さらに、新聞社の一件です。ご存じのとおり、誘拐事件には報道協定というものが敷かれます。事が規制解除の段階に達したと判断できるまで、すべてのメディアは取材、報道を自制する。実際どのような規制が定められているか存じませんが、福井さんの氏に対する『呼びかけ広告』はこの協定に抵触する、と新聞社側で判断したんでしょう。F嬢の場合と同様、事実は告げられない。曖昧に掲載を断わったのは、そんなやむを得ぬ事情のためだったと考えられます」
 確かにあのような広告を出されては、捜査側としては堪らないに違いない。R先生の〈お散歩〉は一部の出版業界人にとっては周知の事実でも、世間全体に知れ渡っているわけではない。一般の読者がその広告を見たら、おやRさんは今行方不明なのか? と勘繰りかねない。新聞社の措置は賢明だったと言えるだろう。
「なぜ頼まれもしない原稿を送りつけたりしたのか、そのわけを福井さんに知ってもらうことが、この添え文の目的だったんです。解ってみれば単純な暗号でした」
「暗号文」がこちらに向けて置かれる。本山が横から覗き込んだ。
「各センテンスのいちばん上にくる文字を平仮名に直してやって、逆から読んでみてください」
 私は手帳とペンを取り出し、言われたとおりに文字を拾った。

 ょくいんの濃き候……。
 いのお約束していた……。
 っそくお届け……。
 ろうじて貴殿のご所望に……。
 ずかな日数を残して……。
 うじに、次回分以降の……。
 しもさぞ多かろうとは……。
 んらくはまた追って……。
 びごとはその折にでも……。

 われ勾引かどわかされり。――わたしは誘拐されている。
 どうりで記憶になかったわけだ。この不可解な文言の羅列は、頭の一字をしかるべく並べるための方便だったのだ。「瑕疵」にわざわざルビが振られていたのは、これを「きず」と読ませる書き手も中には存在するからだろう。
「R氏は自分の置かれた状況を、まず福井さんに知ってもらう必要があった。その上で本文、『ひとがたの幻影』の暗号を解かせ、そこから導き出されるを家族、捜査陣に報せてもらおうと考えたわけです。自分の担当者である福井さんは、いわばミステリの専門職、これくらいのメッセージは難なく解読できると判断されたのでしょう」
「買いかぶりもいいところです」
 しかし先生は、私に白羽の矢を立てた。これはのちに気づいたことだが、ことによると私が「白地図」を裏ベストスリーと推していたことも、その一因なのかもしれない。同じ寓意法の暗号と、の一致が、編集者・福井郁夫の顔を呼び覚ましたのだ。
 直接の通報者は私だったが、警察からの事後報告は、混沌を秩序に導いたマスターが受けた。頼んでそうしてもらったのだ。解決するに至った経緯を訊かれたら、こちらにはどうとも答えようがなかったからである。電話の相手は丁寧に詳細を語ってくれたそうだ。おかげで、私たちは事件のほぼ全容を知ることができた。
 R先生が拉致されたのは前週の土曜日、早朝のことだった。習慣にしている朝のウォーキングの途中で連れ去られたという。誘拐犯は三人組で、いずれも若い男だった。Rが有名な作家であることはむろん承知しており、つまりは営利目的の誘拐だった。犯人グループのうち、一人は東京に残り、あとの二人と先生を乗せた車は一路、彼らのアジト――主犯格の男に土地鑑があったという某地――を目指した。一人を東京に残したのは、被害者宅に脅迫や指示の電話をするためである。自分たちの拠点を東京都内と思わせたかったのだ。「警察に連絡すると云々」という決まり文句はむろん用いたが、それでも通話の際、逆探知を警戒しないわけにはいかない。携帯電話でもその点には不安があったため、彼らが採ったのは都内に散在する任意の公衆電話からコールするという、いたってシンプルかつお粗末な手段だった。さて夕刻となり、接触係の犯人がRの自宅に初めての脅迫電話を掛けている頃、当の先生はというと――、
「非常に落ち着いていらしたようですね」と、マスター。「犯人たちのほうが、よほど浮き足立っていたんじゃないでしょうか。まあ、お年寄りということもあって、彼らもそう手荒な真似はしなかったようですが。とにかく氏は、自分の置かれた現状を把握するや、大胆にも大博打を打った」
「それが、架空の原稿依頼、というわけね」本山が合いの手を入れる。
 事前に若者たちと気安く口を利いておいて、先生はやおら声を上げたのだ。
 ――ああ、いかん。原稿の締切が迫っていたんだった。
 そんなものはどうでもいい、とあしらう主犯格の男を、先生は諭す。
 ――しかし、原稿が期日内に届かないとなったら、出版社が騒ぐぞ。あげくは私が行方不明だということが世間の知るところとなって、本格的な捜索が始まる。うちの者はきみらの言うことを聞いて警察には通報しないと思うが、そうなってしまったら、きみらが困るのではないかな? ここはひとつ年寄りの願いを聞いて、原稿を書かせてくれんか。ただ小説を書いて送るだけだ。きみらになんの障碍が生ずると言うのかね。
 よくよく考えれば可訝しな話だ。遅延を詫びる電話の一本も入れれば済むことだし、原稿を送ったところで、その件で出版社側が先生と連絡を取ろうとすれば、同じ結果になる。現に私はそうした。ところが犯人たちは冷静さを欠いていたのだろう。もしくは単にお人好しだったのか。人質の言い分を聞いてやったのである。
 原稿用紙と便箋、鉛筆に大小の茶封筒を用意させ、R先生は頭の中だけで構築した暗号文をしたためにかかる。
「添え文の暗号はごく初歩的な作りですが、犯人たちの目があるから、メモを執りながら複雑な暗号を仕上げる、というわけにはいかない。空で組み立てるとなれば、単純な出来になっても仕方ないでしょう。一方、『原稿』のほうは、自分が今いる場所を指し示すことが目的の、喩えを用いた手法だったから、これもとくにメモは必要なかった。頭の中で組み立てながら書き進めることは、充分に可能だったと思います」
 本山が口を挿んだ。
「それにしても、よくその場所を探り当てられたものね、先生も。場合によっては、目隠しだってされていたかもしれないのに」
「それについては幸運だったというほかないが、ようはR氏の観察眼がそれだけ鋭かったのだろうね。逆に、その土地がどこなのかを知り得たからこその策略だったのだ、と僕は思う。それが不明のままだったら、先生のことだ、何か別のメッセージを『作中』に含ませたに違いないよ」
 なるほど、いずれにせよ「連載第一回」は送られてくる運命だったのだ。
 実際に先生が「原稿」を執筆したのは、男たちの潜伏場所に着いてからだった。それが日曜のこと。あくる日の月曜日、ご苦労なことに現地組のうちの一人が、その茶封筒を手に東京へ舞い戻っている。R先生、期限が今度の火曜日なのだ、と主犯格の男を急かしたというのである。
 ――私は期日を守らなかったことなど一度もない。どこの版元でも私を信頼してくれている。ここで遅れるようなことがあったら、彼らが不審に思うのは必至だろう。
 そう言って暗に脅し、郵送で済まそうとする犯人たちを焦燥させた。
 消印などの問題があるから、むろん現地から郵送するわけにはいかない。宅配便などもっての外だ。そこで彼らはこう考えていた。茶封筒の上からまた包装を施し、それを東京の仲間に送って、再度都内から投函すればよし。しかし、それでは編集部の私の許へ届くまでに日数が掛かり過ぎる。己に不利だと判断した先生の、これは機転だった。
 そうするあいだにも、携帯電話での犯人同士の連絡や、東京に残った一人によるR宅への脅迫、指示の電話は幾度となく交わされている。しかし、誘拐計画が不慣れで杜撰だったためか、身代金の受け渡しは円滑よく進まず、彼らにとっては無駄に時間だけが流れていった。
 そして木曜日、いきなり民間人の口から犯人の潜伏場所を告げられた捜査陣は、半信半疑ながら現地の警察と連絡を取り合い、言われるままに該当地域一帯を徹底捜索した。結果、かねて地元住民から情報を得て注目していたある不審な民家に、犯人二名と人質の姿を発見した。目の下に隈を作った主犯格の男は、警官の登場に、どこかホッとした表情を浮かべていたという。一方のR先生は、多少憔悴の色は見えたもののいたってお元気で、東京の自宅に戻るや「今日は土産はないよ」と言って破顔したそうだ。
「ところで、ご主人、問題の暗号なんですが」
 話がひと段落したので、私は卓上のコピー原稿を手に取った。
「どうも解らないんです。この描写が、どう転んだら襟裳えりもみさきになるんでしょう」
 マスターはサイフォンを扱う手を止め、
「最終的には特定のポイントを示す内容でしたが、文章全体が襟裳岬を表していたわけではありません。ほとんどの部分は、もっと広い視野でえがかれていました」
「つまり――」
「はい。北海道です」

「一昨日、僕は沙英から、福井さんが体験されたという諸々の出来事を聞かされました。その中で印象に残ったのは、ご自身を悩ませている『見覚え』の話でした。福井さんは文中に描かれている光景と、どこかで遭遇したことがあるという。しかも、なぜか身近な場所での記憶らしい。これはもしかしたらと思い、あらためて原稿の内容を詳細に聞き直しているうち、見えてきたものがあった。それが北海道でした。お嬢さんのご旅行先を聞き及んでいたことも、連想の手助けになっていたのでしょう」
 ん? どういう意味だろう。
「ただ、それが何を意図してのメッセージなのか、が最初は判らなかった。だからどうした、という感じでした。しかしそこで最前の妄想が蘇った。誘拐だとしたら、これは自分が監禁されている場所、位置を示しているのではないか――。で、昨日の朝、添え文の暗号を知って、ああやはり、となったわけです」
「はあ……」
「R氏とすれば、この『小説』の真意を犯人たちにさとられてはならない。当然、原稿は男たちに検閲されるから、北海道のの字も記すわけにはいかない。その意味で、喩えを用いたのは最適な方法でした。結論から言いますと、この文中に登場する『人影』、これ実は、人間ではなかったんです。福井さんだけにとどまらない、我々も普段からよく目にしているものの輪郭、アウトラインに過ぎなかった。その正体は、内浦湾うちうらわんでした」
「うち、うらわん」聞き覚えのない言葉だった。
「北海道の南西部、渡島おしま半島にいだかれた湾の名称です。別名、噴火湾ふんかわんとか胆振湾いぶりわんとも呼ばれているそうですが。ええと――」
 マスターは背後を振り返った。調理台の下に、いくつかの抽斗が設えられている。その一つを開け、中から引っぱり出したのは地図帳だった。それも、小学校の社会科の授業で使われている類いだ。
「こうしてご覧になれば一目瞭然でしょう。日本列島を四十五度ほど右に傾けてやると、北海道の地形が『ひとがたの幻影』に記された光景そのままになるはずです。ほら、これが内浦湾。このほぼ円形をした湾が、つまり『人影』の頭部ですね。そしてその南東に広がる海域を、R氏は男の上半身に見立てたわけです。同様に『洞窟の入口』。これは『人影』の部分を除いた、周囲の海岸線がそれに該る」
 全身を雷電が貫いた。
 開けられたページには、等高線も鮮やかな北海道が広がっていた。その周囲は、やはり深度で塗り分けられたブルーの海だ。しかし同時に、そこには「。背後では、洞窟が大きく口を開けている。[図1参照]

図1

 そうか、と、ここで膝を打った。それで長女の旅行先が出てくるのか。だ。
 横で後輩が唸った。
「んー、なるほど言われてみれば……。非対称のロールシャッハテスト、といったおもむきですね」
 男が天然の洞窟に足を踏み入れ、頭上を仰いでいる。ちょっとえらが張ったような、もしくは頬のふくよかな四角い顔。髪は七三に分けているらしい。頭頂部の脇に、そんな分け目らしい窪みが認められる。左腕に該る太平洋沿岸のラインから受ける印象では、その肩の張り具合から、確かに背広かコートでも着ているように感じとれた。
 日本地図にもいろいろあって、中にはたとえば旅行のパンフレットにあるようなデフォルメされたものや、曖昧な線で描かれているものも存在するが、おおむねこのような心象は、ほとんどの地図から感じ取ることができるのではないか。右肩が不自然に隠れているのが、難といえば難だが。
「思えば、『暗号文』の冒頭には大きなヒントが明記されていました。『首を左に傾けて』という一節です。先ほど、日本列島を四十五度ほど右に傾けて、と言いましたが、それは首を左に傾けるのと同じことです。ようは、文中の男の姿をための手立てだったわけです」
 本山が首を横へ倒しながら首肯している。器用な真似をするやつだ。
「このように、R氏は文章で北海道の〝形〟を読み手――福井さんに示した。その上で、最後の一行です」
 ――わたしは彼の左腕を辿り、すでに袖の先へ達している。
「それまでの文章は、時間が止まっているかのようだった。しかしここへきて突然、作品空間に『動き』が現れはじめた。そう福井さんは感じられたのでしたね。おっしゃるとおりでした。それまでの描写は、いわば地図だった。そしてこの一行こそが、伝えるべきかなめでした。自分は『彼の左腕』、すなわち苫小牧とまこまいから南東へ延びる海岸線に沿って南下し、その『袖の先』、襟裳岬の突端へと達した。誘拐された自分は今ここにいるよ――というこれはメッセージだったのです」[図2参照]

図2

 文章によって描かれた一枚の隠し絵。『ひとがたの幻影』は、それ全体が一つの寓意になっていた。「絵」を見るような印象は、まさに的を射ていたのだ。そこに描き出されているのは、大地に横たわる一人の巨人の姿。「わたし」は確かに男の肩に乗り、左腕の急斜面を伝い降りていた。誘拐犯の運転する車に揺られながら――。
 肝腎なことをまだ聞いていなかった。
「しかし解せないのは、例のありもしない記憶です。男の正体が内浦湾とその周辺海域なのは解りましたが、その光景を、どうして私はいるのでしょう」
「その種明かしも、ではしておきましょうか。もうお気づきかと思っていましたが」
 いいえ、お気づきではありません。
「先ほども言いましたが、福井さんは普段からを目にされていました。だから『見覚え』があった。原稿を読まれたとき、たまたま、その日常の一断片が想起されたに過ぎなかったんです」
「日常の……」
「たとえば、福井さんのご家庭では、朝はパン食だと聞きました」
「は? ええ、まあ」
 唐突な飛躍に戸惑っていると、
「お使いになっているバターです。そのパッケージには、北海道の形がデザインされているのでは?」
「あ――」
「それと、天気予報」
 なんということだ。自分はそれこそ毎日のように、「彼」と顔をつき合わせていたのだ。
 日々、バターの黄色い容器を横目に見ながら、全国の天気図を映し出すテレビ画面を眺めながら、そうする気もなく北海道の形を目蓋の裏に焼きつけていた。そしていつしか図と地を反転させ、無意識のうちに男の姿を見出していた。その「絵」が、たまたまR先生の発想と出合い、呼び起された。そういうことか。
 遠い昔の一人遊びが脳裏に蘇る。地面に落ちた自分の影法師を青空に白く展開したときの、あの清々しい眩暈。躰は浮き上がり、加速をつけて急上昇する。神の視点から、日本列島の連なりを、北海道の雄大な地を見下ろす。そこにあるのは――
 マスターの声が、私を現実に引き戻した。
「光景全体が斜めにかしいでいる気がする、とおっしゃっていたのも、当然のことでした。デザイン画にしろ天気図にしろ、地形の向きは経線を垂直に合わせて、真っ直ぐ描くものでしょうからね。ガラス戸の絵にしても」
「ガラス戸……の絵、ですか?」
「はい、道産子ラーメン店の。――常連さんなのだそうで」
 人のそんな情報まで流していたのか。睨んでやると、本山はとぼけた顔で天井を仰いでいた。
 そういえば一昨日、あの店のサッシュ戸を覗き込んだとき、ふと「見覚え」の不思議が脳裏を過った。今は何も考えまいと頭から追いやったが、ではあれは必然だったのか。ガラス面に、これでもかというくらい大きく描かれていた北海道。戸を引いた瞬間、その真っ赤な「洞穴」は眼前から消え失せた――。
 脇のほうで、何やらコソコソやっている気配がする。と、不意に本山が声を上げた。
「そうそう。福井さん。解けましたよ、宿題」
 見ると、後輩は小型のシステム手帳を開いてこちらへ示していた。ページには女手おんなでの円い文字が並んでいる。
 ――地と水は 二つ巴の かざぐるま 軸の許にて 君を待つのみ
 彼女がR先生の短篇集から写し書きしたものだ。そうか、この暗号、宿題にしておいたんだっけ。
「答えは大阪ですね。この『地』は地面、つまりおかのことでしょ? 正確には島ですけど。そして『水』は湖。『二つ巴』を思わせる島と湖――これは淡路島あわじしま琵琶湖びわこのことです。この二つを点対称図形のように重ね合わせてみると、大雑把ですけど、ちょっと似た外形をしていますよね。回転する『かざぐるま』の羽根です。そのあい対する中間地点、かざぐるまの『軸の許』とくれば、答えは自ずと大阪のあたり、ということになります」
 うんうん、と私は笑みをもって頷いた。
「そのとおり。主人公はそういう経緯で、大阪の、とある思い出の場所へと行き着き、最後は恋人と再会を果たす。まあそういう話なんだが、本格としても秀逸だから、一度通して読んでみるといいよ。いやそれにしても……」
 本山は得意げな表情だ。しかし、私は見逃していなかった。彼女の掌中に、何やら小さくたたんだ白い紙が見え隠れしていたのを。私が再び口を開くのと、マスターの片眉が弓なりに上がるのは、ほとんど同時だった。
「きみの叔父さんて、なんでも解っちゃうんだね」

 厳しかった夏がようやく終わりを告げ、蒼穹に絹積雲が刷かれはじめた頃、私は妻を連れて旅行へ発つことを思い立った。
 新婚以来である。急にどうしたの、とわらう彼女に、私はいつかの約束だよ、と答えた。もっとも、旅先は海外ではない。希望を訊くと、なんと返ってきた一言が、北海道へ行ってみたい、だったのである。かの地の秋がいい時季なのかどうか、自分には判らない。が、それはどうでもいいことだった。奇跡とも思えるような暗合に、胸が高鳴った。
 そして今、私は機上の人である。隣の窓際のシートでは、妻が眼下に広がる雲の連なりを見下ろしている。
 新千歳しんちとせ空港まで、もう間もなくだ。彼女の頭越しに外を覗くと、雲の切れ間を通して、〈長靴ブーツの国〉ならぬ〈巨人の国〉が垣間見えた。
 私は知っている。初めて訪れるこの地に、少年の頃、邂逅を果していた朋友ともが棲んでいることを。彼は今も、この広い大地にゆったりと寝そべりながら、二人の到着を待ってくれているに違いない。
 私は窓外へ向け、心のうちで、そっと呼びかけた。
 やあ、久し振りだな。元気でやってるかい? 大入道。


新麻聡(あらま・そう)
一九六〇年東京生まれ。
一九九四年「マグリットの幻影」で短篇ミステリ・コンテスト『第2回本格推理』に入選。一九九六年「十円銅貨」で『第4回本格推理』に入選。
その後、「五つのバーコード」「新『心理試験』」「銀行に行くには早すぎる」が『創元推理短編賞』の、「巨人の国へ」が『ミステリーズ! 短編賞』の最終選考に残る。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?