『万引き家族』 -聞くこと、見ることが育む「家族」-

カメラの外で人が喋っているシーンが多い。画面の外やカメラのフォーカスの外で、人が声を発している。狭い居間に6人がひしめく家族の会話で、カメラが捉えているのは、喋る側よりもそれを聞いている、あるいは聞くともなしに聞いている側なのだ。聞く者に映画が視線を注ぐ理由は、この「家族」の成り立ちにあることは、見ているうちに分かってくる。

ここに集(つど)っているのは血の繋がりのない疑似的な家族であって、彼らを結びつけているのは万引きや年金の不正受給、誘拐等々の犯罪なのだから、彼らの会話に異様な緊張感が張り詰めているのも当然のことだ。口に出しては言えないこと、暗黙のうちに収めておくべきことが彼らには多すぎて、当たり前の世間話もそんな禁忌に触れるかもしれない。彼らが絶えず互いの話に耳を澄ませているのは、無理もない。けれど、彼らを繋いでいるものは犯罪だけではない。濃密な連帯と親和の意識が、彼らの間には充満しているのだ。その、異様なほどに高濃度な愛の空間こそが、逆にこの家族が本物の家族ではありえないことの証左だとさえ思えてくる。そして、それは、彼らが相手の発話に全身で聞き入っているという、まさにその身振りならぬ身振りによって、醸成されている。

冬空の下、ベランダに出されている他家の少女を、見かねた父親(リリー・フランキー)が連れてくる。おばあちゃん(樹木希林)が少女の腕の傷を見つけて「どうしたの、これ?」と問いかけると、カメラはその二人ではなく、そのセリフに反応して二人を見つめる他の面々を捉える。「虐待」などという言葉が交わされる余地もなく、少女はそのまま新たな「家族」として迎え入れられることになる。「聞く」ことと「見る」ことによって、決定的な関係が結ばれているのだ。

誰かを「見る」視線に込められた強い緊張は、アヴァンタイトルの万引きシーンで示されている。父子がスーパーを同じ歩幅で歩きながら交す合図の目配せや、父親が自らの身体で店員の目線を遮りながら息子に投げる目配せは、店内を緊迫した視線の交錯する戦場のような空間に変容させながら、彼ら親子を連帯の絆で結びつける。

「見る」ことの緊張が、同時に互いを結びつけ、「家族」を形成していく。ふとしたことから虐待の記憶を蘇らせる少女を安藤サクラが思わず抱きしめる、その姿に、周囲の視線が集まって来る。全員が同じ方向に目をやるという振る舞いが、特別な瞬間を作りだす。視線が集まる時間を重ねるごとに、この「家族」は、もう「家族」と呼ぶことでさえも十分に言い尽くせないような集団になっていく。空を響かせる音を聞きつけて縁側に集まった家族が、見えない花火を見上げる場面、カメラはいきなり遥か上に昇っていき、見えないものを見上げるという無償な視線にある種の聖性さえ帯び始める「家族」の姿を俯瞰する。

犯罪によって結びついた彼らが、ほかならぬ犯罪によって崩壊し、社会に断罪されることになるのは当然の成り行きだけれど、それによって失われるものは、私たちの心に残留し続け、私たちに問い続ける。こんな風に傾ける耳を、こんな風に見つめる目を、私たちは持っているだろうか、と。

http://gaga.ne.jp/manbiki-kazoku/


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?