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私の遠野物語―「遺す」ということの考察(後編)

 8月中旬に決行した岩手県遠野への滞在中、岩手や近接する宮城県の東日本大震災の被災地を訪ねることにした。現在オンエア中の「おかえりモネ」の影響もあったかもしれない。一日で宮古市・気仙沼市・陸前高田市を巡る強行軍となったが、それは予想を越える経験となった。

 どの土地でも震災の記憶を遺す取り組み(遺構)をしている。宮古市には津波を受け2階までが骨組みとなった「たろう観光ホテル」が被災した状況のままに保存され、陸前高田市には遺構の代表的な存在とも言える「奇跡の一本松」がある。そして、私が最もショックを受けたのは、ドラマの舞台となっている気仙沼市の遺構・伝承館だった。

 そこは、気仙沼市街から車で20分ほどの岩井埼というエリアに位置する。津波の被害に遭った向洋高校の校舎と並列する伝承館の建物に入ると、まず映像シアターに通される。気仙沼の各エリアで津波が襲ってくる様子を住民がライブで捉えた映像を30分ほど視聴する。海からやって来る津波はすべてのものを破壊する。しかし、その衝撃は1回だけではない。更に勢いを増した「引き波」として、飲み込んだものを海に連れ去って行く。なす術もなく呆然とその様子を見るしかない住民の方々の悲鳴やため息も収録されており、ただただ息を潜めて視聴するしかなかった。

 シアターを出て館内の導線に従って進むと、ものものしい黒い自動ドアがある。その扉が開いた途端、声を失った。津波に襲われたままの状態の、破壊された校舎の中に立っていたのだ。まるで2011年3月にタイムスリップしたような気分になった。5階建ての建物の4階まで津波は到達し、隣接する体育館の屋根は丸ごと流された。屋上からは、容器の蓋をとったような状態で室内が丸見えとなった体育館全体を見ることができる。3階には、津波によって運ばれて来た車が、当時の状態のまま腹を見せた状態で置かれている。校舎と裏手にある総合実習棟との間の数メートルのスペースには、引き波で運ばれてきて建物と建物の間に引っかかった状態の複数台の車が立て向きの状態で、オブジェのように折り重なっている。

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 校舎を出て伝承館に戻ると、被災された方々の肉声を収めた映像を視聴する。中でも深く心に刻み付けられたのは、3月12日に予定されていた卒業式が延期され、3月12に日に避難場所となった体育館で行われた式で答辞を読んだ生徒の言葉だった。

 天が与えた試練というには,むごすぎるものでした。つらくて,悔しくてたまりません。 時計の針は十四時四十六分を指したままです。でも時は確実に流れています。生かされた者として,顔を上げ,常に思いやりの心を持ち,強く,正しく,たくましく生きて いかなければなりません。

 伝承館の外に出ると、明るい日差しの中、造成されミニゴルフ場となった芝生の上で地元の方々がプレイに興じている。そして、海への視界を塞(ふさ)ぐように、建設された防波堤が巨大な壁のようにそびえていた。

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 気仙沼に限らず、多くの湾岸には巨大な防波堤が建てられ、中には建設中のものもあった。その風景に接し、複雑な思いを抱いた。津波は文明の脆(もろ)さを露呈したが、それを巨大防波堤という文明の力で更に抑え込もうとしているように見える。そこで生活を営んで来た人々の生活と、海との関係を断絶させているようにも見える。宮城県女川町は防波堤をつくらない、という意思決定をしたことで有名だ。人々は津波の来ないエリアに住居を移した。再び文明の力で自然との距離を遠ざけようとするか、自然をありのまま受け容れるのか。そこに「正解」はない。

 遠野物語にも、明治29年(1896年)の明治三陸津波に襲われた男が、その1年後、行方不明となった妻と出会うエピソードが語られている。そこでは、妻は幽霊のようでもあり生きているようにも見える曖昧な存在として描かれる。「おかえりモネ」には、妻を失った男が死亡証明書を書かなければならない苦悩が描かれる。時代は変わっても、大切な人を突然失った人の思いは同じなのだ。

 ここで書いたことは、被災された方々や、ボランティアをされて来た方々にしてみれば、何を今さらという内容に違いない。震災から10年も経って訪れ驚いている自分を、少し恥じた。しかし遺構として遺されたお陰で、当時の状況を追体験し、様々な問いを立てることが出来た。自然について。文明について。そこで生きるということについて。失うということについて。再生について。

 気仙沼市内では朝ドラ展をやっており、そこに脚本を担当した安達奈緒子さんのコメントが紹介されていた。

 わからないから怖い、けれど「あなたをわかりたい」と思い、努力し続けさえいれば、わたしたちは笑顔を交わし共に生きていけるのではないか。

 私を遠野への旅に駆り立てたものは「わからないもの、説明のつかないもの」についての思索を深めてみたい、という思いだった。わからないものを拒絶し排除しようとする空気が蔓延するいま。旅の最後に、この言葉の意味を改めて噛みしめた。

#おかえりモネ #気仙沼  




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