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わからないから、面白い-私的・東京国際映画祭の楽しみかた

数年前から、東京国際映画祭に夫婦で通うことになった。その魅力は「わからない」からこその面白さ。

チケット発売開始の10日ほど前に発行されるガイドブックを見て、夫婦二人で観る作品、それぞれが観たい作品を選ぶ。作品の紹介は100字程度。予告編や評判などの情報もなく「面白そう」と思う作品をほとんど自分の勘で選ぶしかない。予測した通り、期待通りの作品なのかは、観てみないとわからない。そのスリルが楽しい。鑑賞後は、お酒を飲みながら夫婦で感想を話し合う。

多くの作品では、上映後に監督や出演俳優などによるトークセッションがある。上映後には決まって観客からの拍手が起こる。作品やつくり手へのリスペクトのある雰囲気が心地よい。

私自身は、今年7作品を鑑賞した(夫婦では計10作品)。

普段知りえない世界情勢への興味から選んだのは2本。「スウェーデン・テレビ放送に見るイスラエル・パレスチナ1958-1989」(スウェーデン/フィンランド/デンマーク)と「英国人の手紙」(ポルトガル)だった。前者はスウェーデン国立テレビで放映された膨大な映像を編集し、パレスチナ問題の推移を見ることができる3時間半のドキュメンタリー作品。後者は、ポルトガルの植民地であり内戦が繰り返されたアフリカのアンゴラを舞台にした物語。

「イスラエル・パレスチナ」は、ガザ地区を巡って拡大するイスラエルvsアラブ諸国の問題を知りたいと思って観たが、改めてのその根の深さや複雑さを知ることになった。映画で描かれる30年だけでも毎年のように途切れなく、何らかの衝突が繰り返されている。イスラエルは、ナチスによって迫害されたユダヤ人が建国した国家だが、政治的な駆け引きの中でイスラエルの中に生まれたパレスチナ人が住むエリアがガザ地区。かつて、ナチスにされたことをパレスチナ人に対して行うイスラエルの姿は、多くの社会や組織で起こる“DVの連鎖”のようで「やられたことを、誰かに対してやる」人間が持つ負の本能を思い知らされる。しかし、「平和とは闘って勝ち得るものである」というパラドックス的信念と憎しみの連鎖は2000年の歴史があり、憎しみ合う構造が複雑に絡まりあっている。ただ一つ言えるのは、時代が変わろうとも、いつも犠牲になるのは一般市民や子供だという悲しい現実だ。

紛争の現場を目の当たりにする「イスラエル・パレスチナ」と対照的なのが「英国人の手紙」だった。

内戦や紛争が繰り返されていたであろう都市部ではなく、あえて砂漠の中の村を舞台にする。まるで国家という概念がないかのように暮らす村人たちの姿を通じて「国とは何か」を考えさせられる。監督のインタビューを読むと、1975年の独立によってアンゴラを去った「入植者」ポルトガル人たちは植民地時代を懐かしんでいたという。かつてアメリカが日本で、日本がアジア諸国でそうだったように、征服者は身勝手な理想を被征服者に押し付けようとする皮肉、自国で生きづらさを感じるのに意のままになる入植地で心地よさを感じてしまう人間の身勝手さが歴史では繰り返される。

それはひとつの国の中でも起こる。「アイヌプリ」(日本/アメリカ)は、現代の若いアイヌ一家を描いた作品。12月に一般公開される。

親の代や自分の世代では、アイヌという出自によって迫害やいじめに遭っていたのに、小学生の息子の世代では漫画やアニメの影響からか友達から「アイヌってカッコいいよね」と言われる。もともと住んでいた場所を「国家」が奪ったのに、失われゆく文化を国家が保護しようとする皮肉がここにもある。漁(猟)師をしながらアイヌ文化を伝えようとする現世代に対して、次の世代は安定した収入を得るために大企業に入りたいと言う。そんな息子に主人公となるシゲさんは言う。

「国は変わっても神様はどこにでもいる」

「アイヌプリ」の福永壮志監督

「人間とは何か」を考えさせられたのは「徒花-ADABANA=」(日本)「黒の牛」(日本/台湾/アメリカ)「陸軍中野学校」(日本)の3作品だった。

「徒花-ADABANA-」は、富裕層が自分のクローンをつくることによって存在を永らえさせる未来の社会を描き、「黒の牛」は禅宗に伝わる人間の仏性を描いた十牛図をモチーフとした作品。また「陸軍中野学校」は、日本初のスパイ学校の設立秘話を描いた1966年の作品だ。

ある意味で衝撃的だったのは「陸軍中野学校」だった。

任務のために、アメリカのスパイとなった恋人も殺す市川雷蔵演じる主人公は、どこか感情を忘れた空虚なキャラクターだ。最も恐ろしかったのは、スキャンダルを起こし中野学校の存在を危機に直面させる学校の同級生を、仲間が追い詰め自殺させるシーンだ。社会のシステムや組織が人間や集団を非人間化し暴走させる怖さを、この映画は描く。

この作品は大人気となり、以後シリーズ化される。1966年といえば、東京オリンピックによって日本が奇跡の戦後復興を遂げ高度成長期を謳歌していた時だ。この4年後に割腹自殺をする三島由紀夫は、遺言のような言葉を遺している。

「このまま行ったら日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国が極東の一角に残るのであろう」

この映画に熱狂・共感したであろう日本のサラリーマンは、正にこの三島の言葉を体現する存在だったのかもしれない。

それから60年。「徒花-ADABANA-」に出て来る人間は、相変わらず空虚であり憂鬱さを身にまとっている。

そんな人間に対して、同じ姿かたちをしているクローンは人間が本来持っているピュアで幸福そうな佇まいを見せる。甲斐さやか監督はトークセッションでこう発言した。

「社会のスピードが人間のスピードを追い越してしまった」

「徒花-ADABANA-」の甲斐さやか監督と主演の井浦新

「黒い牛」はモチーフこそ“十牛図”だが、映画としての設定が秀逸。

明治時代に行われた森林国有化に怒った住民が森林を焼いたため、そこに住んでいた狩猟民の男は追い出される。飼い始めた牛を、町民を仲買として田植えの労働力として農民に貸し出す商売を始める。民俗学者の柳田国男が分析したように、近代工業化によって山(狩猟)・里(農耕)・町(工業)へと分裂し、人間も分裂していく日本の社会の様子がそこはかとなく描かれる。

牛を飼いならす過程は“自分”と向き合う人間の自我形成のプロセスだが、最後は“自分”という存在が消える。禅宗では、「自我は移ろいゆくもので、確固たる自己など無い」という教えがある。西洋的(デカルト的)な自我と江戸時代の体制の狭間で悩む明治期における近代的自我を描きながら“そもそも自分とは”を問う。

アクション映画風でわかりやすい「陸軍中野学校」に比べ、「徒花-ADABANA-」と「黒い牛」は抽象絵画のようだ。わかりやすさではなく「わかりにくさ」を味わうのも映画祭ならではの楽しみ。

しかし、社会や時代背景などを忘れて純粋に楽しむのが、映画本来の魅力でもある。

最後に鑑賞したのは、映画祭のクロージング作品となった「マルチェロ・ミオ」(フランス/イタリア)。


イタリアの名優マルチェロ・マストロヤンニと女優カトリーヌ・ドヌーブの間に生まれたキアラ・マストロヤンニが自身を演じている。父親の幻影から逃れるために、あえて父親と同じ扮装をして生活を始める(父親にソックリ!)キアラに戸惑う周囲の人たち。ドヌーブも母親役として登場する。

現実の出来事だったはずが、いつしか夢の世界との境目が曖昧となる展開に、私はマルチェロの代表作となったフェデリコ・フェリーニの「甘い生活」や「8 1/2」を重ね合わせた。

「虚実皮膜論」という言葉がある。浄瑠璃作者・近松門左衛門の芸術論で

「事実と虚構の微妙な境界にこそ芸術の真実がある」

というものだ。

男装をしたスタイリッシュなキアラが現実と非現実の間を軽やかに動き回る本作は「これぞ映画!」であり、映画祭の最後に鑑賞するにふさわしいと感じた。

どの作品も、戦争、テクノロジー、組織、自然・・・と媒介こそ違え、いずれも人間を描いていた。
人間は美しくて醜く、賢くて愚かで、無いかもしれない自分を追い続ける存在らしい。
人間も映画も、わからないから、面白い。

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