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「感情」を作品にする-ソフィ・カル「不在」を鑑賞して

三菱一号館美術館で開催中の「不在 トゥールーズ=ロートレックとソフィ・カル」を鑑賞した。

同美術館のコレクションの核となるロートレックとフランスの現代アーティスト ソフィ・カルの作品を接続させた構成だが、ここではカルのパートについて扱いたい(正直なところ、両者の接続にはさしたる説得力を感じなかった)。

さて、本展覧会ではカルのテーマのひとつ「不在」に関する作品が展示されていた。この作家の特徴は、写真や映像といったビジュアルとテキスト(言葉)を組み合わせていることと、単なる作品の鑑賞を越えた“仕掛け”によって観る物のイマジネーションを喚起することだ。

<自伝>シリーズでは、作家の両親や猫の死を題材として、誰もが体験する最も近しい存在の喪失と不在によって呼び起こされる感情を追体験させる。

<今日、私の母が死んだ>は、作家とその母の日記の文章と、インスピレーションを得た写真が組み合わされている。


<どなたさま>は、ふと亡くなった父親の番号に電話をかけてしまった体験を造形化している。

<あなたに何が見えますか?>シリーズは、1990年にボストンのイザベラ・スチュアート・ガードナー美術館から盗まれた数点の作品(レンブラント、フェルメール、マネなど)のあった場所に残された額縁と共に、それを前にした美術館の学芸員、警備員や来館者が感じたことをテキストが組み合わされた作品。

また<監禁されたピカソ>シリーズは、パリのピカソ美術館の休館中に作品保護のために紙にくるまれた様子を写真におさめている。

2つのシリーズは、いずれも「あるはずのものが無い(隠されている)」ことで人にどのような感情が湧き上がるのかを追体験させる。

<海を見る>シリーズは、海に面したイスタンブールの内陸部に住み、貧困のために生まれてから海を見ることができなかった人たちが、初めて海岸を訪れた時の様子をマルチ映像にしている。最初は、海を見ている後ろ姿が映し出され、一人ひとりこちらを振り返る。ある者は涙を流し、ある者はとびきりの笑顔になっている。

昨年末に訪れた豊田市美術館には、この作家の<盲目の人々>シリーズが展示されていた。

視覚障害を持った人たちに「あなたにとって美しいものは何か」を問いかけ、その回答のテキストと共に、回答を可視化した写真を展示している。

この2つのシリーズでは、私たちが「当たり前」だと思っているものが「当たり前」ではないこと、あるいは「当たり前とは何か」を問いかける。「不在」は「存在」があるからこそ、生まれるのだ。

人は、在って当然だと思うもの(者)を失って初めてその価値がわかる。あるいは、在って当然のもの(者)を失って初めて見えてくるものがある。

ソフィ・カルにとって写真、映像あるいはテキストといった造形はあくまで「媒介物」であり、観る者の中に湧き上がる感情こそが「作品」なのではないだろうか。

#ソフィ・カル   #三菱一号館美術館 #不在 #豊田市美術館


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