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いま「儒教」を考える意味-「儒教のかたち こころの鑑」を鑑賞して

サントリー美術館で開催中の「儒教のかたち こころの鑑」展を鑑賞した。
https://www.suntory.co.jp/sma/exhibition/2024_5/

儒教は、紀元前6世紀の中国で孔子が唱えた教説と後継者たちの解釈が体系化された思想だ。日本には仏教よりも早く4世紀に日本に伝来した、と言われている。

本展覧会は、儒教の日本への伝来から始まり、江戸時代に社会全体に広まるまでを4つの章(パート)で紹介している。

第1章(君主の学問)では、為政者の空間となる宮殿や城郭で儒教を題材として描かれた「勧戒(かんかい)画」が紹介され、第2章(禅僧と儒教)では、為政者のブレーンとなった禅僧の活動を反映した美術や、禅僧が校長となった日本最古の学校 足利学校の活動を知ることができる。

貴族から武士へ。時の権力者の在り方が変わっても、執務室に勧戒画という特大サイズの“教科書”を描くことで日々、あるべきリーダーシップについての考えを深めていったのだろう。同時に、彼らは何を「戒(いまし)め」ようとしたのか、について想いをはせた。権力欲だろうか、征服欲だろうか・・・。為政者が自らを戒めた代表例として有名なのは、ローマの皇帝 マルクス・アウレリウスが著した「自省録」(「ミステリという勿れ」の整クンの愛読書として評判になった)だが、洋の東西、時代を問わず、リーダーには“内省力”が求められるのだ。

第3章(江戸幕府の思想)では、武士に留まらず、すべての民衆が儒教や(儒教から派生した)朱子学を学んだ様子や、幕府直轄の学門所 湯島聖堂について紹介され、儒教がリーダーシップ教育から「道徳」へと拡張して行く様子が理解できる。また第4章(儒学の浸透)では、儒教思想をベースに読本、浮世絵や歌舞伎といった「文化」へと更に拡張していく推移を知ることができる。

なぜ、江戸幕府が儒教を民衆に広めようとしたのか?戦国時代が終焉を遂げ、長い太平の世の中が訪れたことによって民衆の文化が生まれた。文化の中心地も、皇室のある京都から幕府のある江戸へと移ってゆく。元禄時代には民衆文化が大きく花開くが、同時に道徳心が薄らいでゆく、という危機感を幕府は抱いたのだろう。

また、江戸時代に起こった災害や飢饉によって財政が厳しくなると、幕府は緊縮財政改革を断行し、それと歩調を合わせるようにして“民衆を浮つかせる”文化を統制するようになる。儒教を題材とした読本、浮世絵や歌舞伎は、そうした風紀を正そうとした幕府と民衆文化とのせめぎあいの中で生まれたのだと推測される。

また、長い太平の世によって、武士自身から“武士の心”が薄れていく。それによって江戸期後半、全国各地に藩校が設立されていく。

本展覧会では、江戸期までの美術品が紹介されている。では、明治時代以降、儒教教育はどうなったのだろう?明治維新によってもたらされた西洋近代化、その後に続く軍国主義化によって、民衆の道徳教育は“戦時教育”へと形を変え、そして第二次世界大戦敗戦によるアメリカ式教育の導入によってスクラップされていった。私自身、小学校時代に道徳のカリキュラムがあったことは憶えているが、内容はまったく記憶に残っていない。そうした扱いを受けてていた、ということだ。

だが、社会がますます混迷の度合いを増している現在、改めて「儒教」を見直す必要性を、私は強く感じた。渋沢栄一は、利潤追求と社会貢献両立の必要性を説いた「論語と算盤(そろばん)」を著した。

会社に生涯雇われる終身雇用の時代が過去のものになろうとしているいま、権力者や為政者に限らず、一人ひとりが道徳心を持った「自分の人生のリーダー」となることを求められる時代になるのではないだろうか。現在でも、足利学校をはじめ全国の元・藩校では、(儒教をわかりやすく言語化した)論語を教える草の根の活動がある。限られた場所ではなく、儒教を学ぶ場がもっともっと広がり、一人ひとりに道徳心やリーダーシップが生まれて欲しいと思う。

#儒教 #サントリー美術館 #儒教のかたち  こころの鑑


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