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「見えない穴から落ちたもの」

もし感情を一つ失くせるとしたらあなたは何にしますか?
テレビから聞こえてくるドラマか映画の宣伝に合わせて行われるバラエティのコーナーでそんな質問が投げかけられていた。

失くそうと思わなくても気がつくけば無くなっている感情だってあるのに、随分と贅沢な質問だなぁと思いながら頬杖をついてぼーっと画面を眺めていた。

盛り上げるために必要以上のハイテンションで進行される番組の空気はただ眺めているだけでなんとなく疲れさせた。番組は始まってまだ数分というところだったけれど僕は早々にテレビの電源を落とした。

それからパソコンを開いてインターネットの海の中を泳ぎながらたどり着いた一つの島で気ままに動画を漁る。大人から子供まで年齢を問わないおもちゃ箱の中身は底を尽きることを知らず、一瞬の間に新しいものを古くする。それでもスポットを当て直してあげることでその一つ一つは再び画面の中で輝き出すことができた。

気になった音楽を聞こうとして一つの動画をクリックすると同じジャンルのものが関連して次々と紹介される。そこには愛を歌う楽曲が連なるように準備されていた。

イヤホンから届く音と言葉が浸透していくのと同時に自分の中にある「誰かを愛した」記憶がはるか遠くにあることを思い出させる。

そういえばと振り返ったあの子の顔も今はもううろ覚えでその輪郭をはっきり捉えることも出来なくなっていた。誰かを好きになるってどういう感じだっけ、いつからかそんなことを思うようになった自分はあの頃は想像もしていなかった未来の上に立っていた。

胸の内側に感じたあの暖かい感覚もそんな気持ちと一緒にすっかり忘れてしまっていた。肌の感触や一人分の温もりに髪の匂い、そんなものだけがかすかに記憶の底に残っていたけれど、はっきりと何かを思い出すには足りないくらいにそれはとても薄まったものになっている。失くさなくたって自然とすり減っていくのだ。

電子レンジに入れていた弁当の存在を思い出すとそれを取り出しにキッチンへと向かう。暖かいコンビニ弁当を手にテーブルに戻るとイヤホンをつけて音楽を流しながら箸を進めた。

自宅の冷蔵庫は飲み物と調味料、それにほんの少しの食材が入っただけのスカスカの中身をしっかりと冷やしていた。水の入ったペットボトルを取り出して濃い味付けで渇いた喉を潤す。

弁当の容器を水で濯いでからゴミ箱に捨てる。ゴミ箱の中は似たようなゴミで埋め尽くされていて代わり映えしない生活の鏡みたいだった。同じところをぐるぐる回る僕はいつものように明日も早く起きる必要がある。シャワーを浴びたら今日はもう寝よう。

そう思いながら再生したままだった画面を覗いてそのページをスクロールするとそこには名も知らない人たちの声で溢れていた。愛を語る声や忘れていたものを思い出した声、目まぐるしく積み重ねられた言葉の層は小さな世界を作っている。色とりどりな層は画面の中に広がりを持たせていた。

狭く見えていた世界は広く、経験の無いことがそこかしこに転がっていることを目の当たりにすると、様々な可能性を感じることが出来た。それはきっと寝て起きたら忘れてしまうような感覚なのかもしれないけれど、今の僕にはそれで十分だった。

そんな色々な声に触れながら心の中で問いかけるように呟いた。どこかで落としてきた忘れものもいつか思い出す時がくるのだろうかと。答えを持たないその言葉は僕の中で宙ぶらりになったままになる。

そこに答えは出ないけれど、この世界ではいつもどこかで「誰かを愛する気持ち」が生まれている。そしてその芽生えの種はいつもどこかに眠っている。それが僕の胸の中にもあったらいい、そう期待するだけで少しは光が差した気がした。

パソコンの画面を閉じると部屋の中で目を瞑って記憶の残りカスをすくい上げる。記憶の底から香る懐かしい香りはどこからともなく立ち上がると、わずかに鼻の先をかすめた。それはいつもと変わらない独りの夜に一瞬だけ特別なあかりを灯してくれた。





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