
日本平エピソード1 始まりの物語
富士山をのぞむ日本平オリーブ園は、今年もたくさんの実を付け、順調に成長しています。
クレアファームは、藤枝市仮宿で、協創プロジェクト「CREA Village」の準備に追われていますが、この静岡市清水区「日本平オリーブ園」がクレア物語の始まりでした。
2014年当時、農業専門家や経営者仲間達から「絶対失敗する」とのお墨付き(!)をいただいていたお騒がせプラン。
「アイデアは面白いし、バリューチェーン構築(6次産業化)の意味はわかるけど、肝心のオリーブができないだろう〜〜」と。
ビジネスモデル以前の問題。「商業ベースにのるオリーブ栽培は日本では成功しない」が定説だったからです。
栽培を成功させるためには、いくつかの難しい条件がありました。
①同じ志を持つ農家仲間(高い技術を持つ農業者)
②世界レベルの海外指導者の招聘
③設備など高いレベルのインフラ整備
④交通アクセスが良い広大な農地
⑥これら全てを実現するための資金調達
①②はヒトの問題
③④はモノの問題
⑤はカネの問題
「事業はヒト・モノ・カネ」とは言われますが、身の丈でなく最初からとても高いレベルで準備することが必須でした。
この時期には、いずれ会社のMVV(ミッション・ビジョン・バリュー)となるものは創業者の頭の中にしかなく、事業計画書は存在しますが、「たぶん行けると思うので、死ぬ気でがんばってココを目指しましょう!」なのです。
希少農産物を作れないと、事業が始まらないという、誰がどう見ても、「へんてこりん」なプラン。当然ながら一向に進みません。
思い返すと、2014年から事業をスタートするまでの一年間、実に365日で400回プレゼンをしていました・・正確には、知り合いを捕まえては夢の押し売りをしていただけなのですが、「夢」という熱病に冒された人間というのは「自分が変」なのに気づかないらしく、どれだけ笑われても、真面目に司法書士を続けろと諭されても一向にヘコたれませんでした。
「状況の奴隷になってしまうと、状況が悪いことを理解し、自分の夢が非現実的であったという結論を出すだけになってしまう。しかし強い願望を持っている人は、問題を解決するために創意工夫と努力を始め、目的に到達するまで、決してあきらめない」当時ノートに書いていた稲盛和夫さんの名言です。
世界で評価されるオリーブオイルを作り、6次産業化で地方の農業のカタチを変え、地域活性まで繋げるためには、象徴となる農園の場所は最重要。
自分の中では一択!
日本を象徴する富士山を見晴らせる景勝地「日本平(にっぽんだいら)」。
(アホか!と呆れる皆さん、安心してください、この5年後2020年に本当に世界メディアに載りましたから↓)
2014年9月、ついに「日本平で所有農地を持っている実力派農家が土地を提供して一緒にオリーブ事業に参加したい」という情報が。あ〜キタ、神様ギフト!
(各種規制がガラパゴス化した恐ろしいエリアで、実は素人参入で農業を行える場所ではなく、各種認可をいただくのに死ぬほど苦労しました。あらためて記事にします。)
さて、「青木親分」と初めて会う日。
当日は司法書士業務のためスーツを着て、高めのヒール靴を履いてました。ふと、これから農家さんに会うのに、この格好でお会いするのは失礼かなと急遽自宅に戻ってラフな格好に着替え、スニーカーに履き直して現地に向かいました。
ご対面〜。

要約すると次のようなやりとりでした。
青「お金あるの?」
私「ないです😁」
青「他に生産の協力者は?」
私「いません😁」
青「どうやって売るの?」
私「自分達で売り場を作ります😁」
青「売れるの?」
私「売れます😁」
青「ここに人の賑わい作れるの?」
私「押し寄せます😁」
青「・・・・・・」
私「😁😁😁」
そして
「僕はオリーブ育てたことがないし、オリーブオイルの味も知らない。
でも新しい農産物を作ることにチャンレンジしたい気持ちはある。
それから、あなたの構想は面白いと思った。
僕は、生まれてからずっとこの街(清水)で生きてきた。この街が大好きだ。しかし旧静岡市と合併してから街の活気は落ちた。残念に思っている。
ココには久能山東照宮もある、三保の松原もある、富士山も見える、清水港もある、僕は日本一良いところだと思っている。自慢の街だ。
ここに日本中からたくさん人を呼んで賑わいを作るんだね?
この街の農業も元気にしていくんだね?
どう考えてもお金儲けはできないと思うけど、未来をつくり、地域を元気にする事業だと思う。夢があるよね、協力する!」
若い頃に銀行を退職して家業の農業を継いだ青木さんは、みかん等果樹の栽培農家でした。「はるみ」など高付加価値柑橘の生産に従事しながら、地元の活性化の様々な役を担っていました。
「清水の次郎長」のお膝元で育った青木さんは、次郎長のようなリーダーでした。
筋のとおらないことは大嫌い。義理人情、体育会系、いわゆる昔ながらの親分肌。
想像を超える凄いリーダーシップを発揮し、農園チームをまとめあげ、クレアの土台を共に作っていく人との出会いでした。
後日談ですが、初対面のときにスカートとヒールで現れたら、農業を舐めてる奴だから話も聞かず、即断るつもりだったと。(着替えて行って良かった!今でも畑の中(農家の聖域)はヒールとスカート厳禁!)
青木さんは地元JAの役員ほか、農業振興の様々な団体で役を受けていましたが、自身も後継者がおらず、活気がなくなっていた地域農業の未来に強い危機感を持っていました。
事業構想に興味を持った・・だけではなく、このまま誰も何もせず時代に流されるより、自分自身がチャレンジすることを選択したのだと思います。
つまり自分ゴト。
青木さんは絶妙のタイミングで登場した理想の仲間でした。
そして、その数カ月後に、私達の運命を変えた、
世界的に著名な指導者、元オーストラリアオリーブ協会会長で、エキストラバージンアライアンス創業者のポールミラー博士が静岡にやってくるのです。
つづく・・・。