見出し画像

センターポールアスリートとの出会い⑰ ベジータのプライド 官野一彦②

車いすラグビー官野一彦選手との出会い第2弾です。
官野選手が車いすラグビーと出会った経緯の続きになります。

前回の続きはこちらです。

「これなら世界を目指せる」

声を掛けてくれた車いすの男性はどうやら”ウィルチェアーラグビー”(車いすラグビー)という競技をしているそうです。
官野さんもその競技の名前を聞くのは初めてでした。
しかし、偶然にも声を掛けてくれた男性と官野さんの家は隣町。
練習も自宅から比較的近い場所で行っているので、その場では「機会があれば行きますよ」という程度だったそうです。

自宅に帰ってから、パソコンで聞きなれない”ウィルチェアーラグビー”(車いすラグビー)を調べると、車いすに乗った選手がすごい形相で車いすをぶつけてプレーしています。

「車いすでこんなに激しく荒々しくプレーして良いんだ。」

官野さんも、車いすラグビーの激しさに魅了されたのでした。
そして、このウィルチェアーラグビーという種目はパラリンピック正式種目で、四肢麻痺の選手の為に作られた種目です。
官野選手は「もしかしたら世界を目指せるかも知れない。日本代表になれるかもしれない。。。。そしたらモテるかもしれない。」
若干、不純な動機というべきか男の性という気もしますが、こうして官野さんは車いすラグビーの門を叩くことになったのです。


パラリンピックの雪辱はパラリンピックで返す

官野さんが車いすラグビーで頭角を現す迄、そこまで時間は掛かりませんでした。
というのも、彼は高校野球でもトップクラスの実力で、強豪木更津総合でレギュラーだった選手。
スポーツで努力するのは当たり前というマインドを既に持っており、トレーニングは徹底的に行う”ストイック”な選手です。
しかし、勝つ為には練習するのは当たり前というマインドの本人は”自分がストイック”とは思っているつもりは一切無く、自主的に目標に向かって行動が出来る人でした。

すぐに大会でも活躍し、日本代表にも定着した官野選手が初めて臨んだパラリンピックは2012年のロンドン大会となります。

ロンドン大会での車いすラグビー日本チームの大会結果は4位。
初出場でメダル獲得には為らず大会を終えました。

成田空港では帰国して到着したメダルを獲得した、他種目の選手は記者から激しいフラッシュの中インタビューを受けているのを横目に官野選手は
「俺たちだって頑張ったはず、次は自分がメダル取ってやる」
と、雪辱を誓ったのでした。

気高きベジータのプライド

私が官野選手と出会ったのは2015年なので、まさしくリオパラリンピックに向けて雪辱を果たす為に準備をしている時期でした。

「田中氏、俺はね車椅子生活になって良かったと思う事なんて一回もないの。車いすになってもカッコよく生きることが出来るし、障害を理由に諦めるような、ダサい生き方はしたくないんだよ。
スポーツ選手として誇りもってやっていきたいし、その証明であるパラリンピックのメダルがどうしても欲しいんだよ。協力して欲しい。」

官野さんが私にストレートに本心を伝えてくれるのが気持ちが良かったですし、一緒にいて話を聞いた印象がドラゴンボールのベジータのような誇り高い人だなと感じたのでした。

今まで出会ってきた選手でも”障がいがあったから強くなれた”と捉える選手もいます。
しかし、官野さんは”官野さんの本心”があって素直に発信ができるからこそ、伝わるものがありました。

障がいに対する考え方はセンターポールアスリート全員違いますが、
いずれにしても、”スポーツが彼らを強くして生きる道を与えている”
というのは紛れもない事実です。

官野選手との出会いが私にとって、パラアスリートサポートの必要性、パラスポーツ普及の重要性を改めて考える機会となりました。

つづく