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「前、ならえ」の成長痛

わたしは、人よりも背が小さかった。
人生における思い出の記憶力がなかなか乏しいわたしだが、
特に印象的だったトピックが「小さかった背丈」である。
自分自身を振り返る機会も設けさせていただきながら
そのことについて綴っていきたいと思う。

「小さい」ときのコンプレックスについて

まず、背が低い時にあったエピソードを箇条書きでリストアップしてみる。

〜これ、あったあったエピソード(小島編)〜
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①小学2年生からメガネをかけはじめていたのと、背が小さいのが相まって
「メガネザル」というあだ名が爆誕する。
②前ならえ・運動会の行進は小学6年間ずっと前担当。
③ドッジボールで「あいつちっこいからすぐ仕留められそうだぞ」とすぐ標的になる。
④年上なのに年下に見られてしまう→ちょっと上から目線で遊ばれる
⑤前に背の大きい人がいると一気に視界が遮られて困る
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個人的に印象に残っているのが、②の前ならえである。
常に手に腰をあてる作業、運動会では一番前で堂々と手を振ってみんなを誘導しないといけない行進。

「ああ…。わたしもみんなのように腰をあてているひとに手をまっすぐにピン!と向けたい。。」

そんなことをいつも腰に手を当てながら考えていた体育の時間。
学年を過ぎるごとにみんなとどんどん差がついてくる背丈にどんどん焦りを感じずにはいられなかった。ちなみに卒業文集には「絶対170cmになってみんなを見返してやる!」というフレーズがデカデカと刻まれている。

「かっこいい」にめちゃくちゃ憧れていたあのとき

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気づけば物心ついたから「女の子らしいもの」ものより「かっこいいもの」が好きだった記憶がある。周りの友達が好きなセーラームーンよりスーパー戦隊ものが大好きだった。
そのわりに、怖がりで泣き虫。それこそ、セーラームーンの敵キャラとオープニングテーマは涙がでるほど嫌いだったし、ホラー番組もひとりではとても見られなかった。

小学校中学年あたりから服装や趣味も同様でドラゴンで漢字が刻まれてる渋めのTシャツがお気に入りで七分丈のダボダボのズボンなどを選ぶようになり、スケボーに乗ったりするようになった。自分は男子でありたい、とも思ってる時期もあった。

また趣味で描いていた絵や漫画が「面白い」とみんなに褒められるようになり、調子に乗って色々書くようになった。みんなに評価される絵を書くことはどこか自分の中で「かっこいい」ことなんだと繋がっていた。

小学校高学年では「あーちゃん」という素晴らしくかっこいい友達に出会った。ドッジボールを大きい身体でガシッと受け止め、当時のわたしといるとお母さんにも間違えられてしまうほどの大人でクールな女の子だ。
背の小さいわたしはひたすらあーちゃんに憧れの眼差しを抱いていた。
(あーちゃんとは今でも親交があり、大事な友達である)

思い起こすと、どこか自分の弱さを補うように隠すように、「かっこいい」を身にまとったり、そういう人に憧れていたかったのだ、と思う。

「小さい」から逆転しはじめた中学時代

みんなの背と自分の背に違いが起き始めたころ、このままではいけないと著しい不安を感じた小学校高学年の私は苦手だった体育会系の部活に挑戦し、牛乳を毎日2杯ガブ飲みし、家や給食ではおかわりを積極的に始めるようになった。中学から本格的に部活を始めた私は今までの取り組みもあってか、中学3年間で総25cmほど身長がぐんっと伸びた。(後に高校の自分史で25cm革命と名付けることになる)

気づけば中学を卒業する頃には、中学1年生のときに見上げてた子を見下ろす側になっているという現象が発生していて、スカートは裾直ししても校則違反と疑われるほど短くなっていた。過ぎゆく毎日で「小さい」自分から変わっていることを感じて、わたしは内心ガッツポーズをして少しそれが少しばかりの自信になった。

あのときの感情は何だったのか

自分なりの「かっこいい」を身にまとい、背が低い上に泣き虫で怖がりな自分を必死に隠そうとしていた小学校時代。背の小さい自分を変えたくて、いろいろ試行錯誤していた小学〜中学校時代。
今振り返ってみると、「弱いわたし」と「なりたいわたし」のマイナスとプラスの感情がぐるぐるとうごめいていたように思う。

名付けるなら、「こころの成長痛」といってもいいのかもしれない。
成長痛のように不定期にやってくる痛みの波、成長が訪れたら収まる波。
「前ならえ」に対するコンプレックスが、もう一段階成長するためにわたしに与えてくれた大事な成長痛なのだ。

小さかったのも、わたし。 小さかったからこそのわたし。

先日、小学校・中学校の同窓会に行く機会があった。
雰囲気がだいぶ変わった子、昔の面影を残している子、親になって表情がぐっと大人になった子、仕事を謳歌して楽しんでいる子、いろんなみんながそこに存在していた。
ふと、中学卒業ぶりに会う子にこんな声をかけられた。

「昔はこんっなに背が小さかったのに、本当大きくなったよね!」

なんだか、その言葉に救われる感じがした。
あのときの文集の宣言は確実に果たせずとも今のわたしは小さい時のわたしではなくなったこと、また小さかったあの時のわたしをちゃんと覚えてくれていることだ。

*

あのときはなんだか、うずうずしてひとりでもがいていた小学〜中学のコンプレックスの塊だったわたしをもっと認めてあげれてたら、と今では思う。

ただ、あのときもがいなかったら、やけに心配性すぎるわたしも、メンズライクなものを好むわたしも、スポーツを楽しいと思えるわたしも、存在しなかったのかも、とも思う。

背が小さかった、という事実はこれからもずっとわたしの歴史で残ることだ。そしてきっとこれからも、他のコンプレックスや悩みで苦しむ場面があるのだと思う。

でも古き友人に会って背のことで声をかけられるたび、昔の思い出を紐解くたび、このnoteを見返すたび、きっとわたしはその感情を再び呼び起こして、大事な原点に帰って、元気をもらえるのだと思う。




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