優しい乱暴 原案小説その2

 由利寿文は運び屋で水野知子はその助手です。運んでいるものは婦人服でお客は老人ばかりだ。老人用お洒落着のカタログを一軒一軒に運び、注文があればその服を届ける。仕入れ先はパリと言うが郊外の寂れたスーパーの洋服コーナーだったり、地方の洋裁店だったりする。それを美しく撮影し、宣伝し、販売する。百貨店のブイアイピーの様に扱い、ご夫人達の部屋の空気をゴージャスに演出する。空気だけを演出する。水野知子は薔薇の香りを散布する役目だ。
笑ってばかりいる由利の変わりにご夫人を褒めたたえる役目もある。売る婦人服のモデルもする。ストレスからビールの量が増えたらしい。それがすごく嫌だと配送中の助手席で愚痴る。愚痴って感情が高まり、メロディにのせて愚痴る。由利はそれが嫌で歌うなと怒る。その度、人生はミュージカルであるべきだと水野知子はでたらめに笑う。きれいな素足にみえるけど実はストッキングでしたという様な勘違いにも似た恥ずかしい怒りを込めて笑う。
 常連の鏑木エリエリレマサバクタニ八十七歳を自宅の庭で接客がてら撮影なんて事をしていたら蟹江鳥生、へらへらと。
それが由利寿文と蟹江鳥生の再会で。

 老婆はバスを待っている。
夜にバスを待っているが、繁華街にあるそのバス停の最終は過ぎている。
あとは朝の酔いどれた始発だけだ。もしや始発を待っているのか、この寒空に夜を越えられる様な年齢ではない様に見える。始発の酔いどれは帰宅する輩ばかりだが、老婆はなぜだか何処かに行きたいのだろうと勝手に思っていた。   それでも老婆、君はにやりにやりとして。
寒い季節の空はきれいらしい。空気がきれいだから。空気がきれいだと空もきれいなのか、疑問ではある。君がキレイなら、俺もキレイか。その比較もどうだろう、空気と君、空と俺、いや、君と空、俺と空気、いやいや、空気と空の関係と、君と俺の関係、どれも比較するには不確かすぎるし、実は空気も空も君もよく知らない俺がぼんやりと待つべきじゃない人を待ち伏せしながら考えているのだ。君は夜空を見ていた。繁華街の光が少しずつ消灯して、星光が濃くなる。もう人も散り散り残されたのは今日に縋りつく輩ども。星空の星と似た近くて遠い孤独な関係。星座にするとすればノミタオスロス座みたいな感じか。遠くでクスっと俺を眺めて笑う女が居る。大丈夫、俺を笑ってるわけじゃない。酔っぱらいの集団がもう帰れないよと騒ぎながら老婆の前を過ぎた。その後ろから一人、再び酔っぱらいの詩人ぽい中年男がふらふらと老婆の前を過ぎる。老婆はバックを取り出しぱかぱかとリズミカルに開いては閉じて、再びにやりにやりとして。
「夜空に乾杯!」
詩人が叫ぶと、そのおでこにぴしゃりと液体が振ってきて勢い良く衝突した。
なんの液体だかわからないくらいに粉々に飛び散った。
「まいったなぁ」
詩人が照れて恥ずかしそうに額を手のひらで押さえると、その液体は涙に見えた。詩人は今日、なんの宴だったのか、ふらふらと酔った呼気のリズムで陽気とは逆の気分で踊っている。俺も交ぜてよなんて思ったら、また遠くでクスッと笑う女。俺だって踊れるけどさ、とか思ってみる。
「まいっちゃんだなぁ」
詩人の隣をミニスカートの女が歩いた。詩人は太腿と太腿の間に名前を付けた。
 まいちゃん。
思わずそう呼んだ。ミニスカートの女は詩人を振り返る。
でも詩人が見てるのは股の間だ。女は気のせいかと向き直り歩いて行ってしまう。気になるのは女が本当にまいちゃんだったかどうかだが、あまりにどうでもいい。だってミニスカート女の顔がもうわからない。知り合いにまいちゃんが居たかどうか考えてる。そうしてあの老婆を八十五歳の女の子と呼んでいた。
いつのまにやら。
俺はこう考えていたのだ、あの八十五歳の女の子は、まいちゃんだろうか。
なぜだかね、いつのまにやら。
それで、八十五歳の女の子はまいちゃんなのか確かめてみたい気がしたけど、俺なんてまるで無視で虫を眺めてる。バス停を照らす街灯に虫が飛んで影ができるかららしい。あ、蛾かな、マイマイ蛾って種類いたな、もしもあれがマイマイ蛾なら、まいちゃんだよな、そうだろ、酔いどれの詩人よ、俺は詩人と呼気のリズムで陽気とは逆の気分で並んで踊ってる気分になった。
気分だけだから、八十五歳の女の子がそれで楽しんでくれるはずもないけど、俺と詩人がいる通りよりもっと向こうを眺めて、微笑んでいた。
「夜よ明けるな、バスよ来い」
心の中ではノミタオスロス座のダンスが躍動していた。
遠くの女が楽しんでいるので少し調子に乗っていたのだ、心の中では。
そこにバスが来た。
そのバスには蟹江鳥生が乗っていた。
もう辺りには詩人もミニスカートも居なくなっていた。
バスはもう最終を過ぎているのに、八十五歳の女の子が待つバス停に停まる。
そして夜が明けた。
始発のバスに帰宅する酔いどれの輩が群がる。煙の匂いの強い輩。
だりぃねめぃ等々の倦怠のうめきの中で、密やかに歌声が聞こえる気がする。
なもしらぬとおきしまより、反芻して島崎藤村の椰子の実ではないか、と思ったがあまりに朝の繁華街は海が遠く感じてしまったのだ。
繁華街の早朝の体重は重たいから沈んで溺れてしまいそうだ。
バスを下りる蟹江鳥生に椰子の実は聞こえなかった。
交わらない二人。
帰宅する酔いどれどもに交じりわからなくなってしまったんだろうか。
だりぃねみぃだばだばとうめきは途切れず、、まるでそれが静寂の様だ。
「由利君」
蟹江鳥生から連絡が来て朝にバス停で待ち合わせをした。
ある女性に服をプレゼントしたいとの問い合わせだった。
これが蟹江鳥生と由利寿文の出会いで。

「私、人の心が聞こえるのね、これはホント」
水野知子の口癖である。
人の心が聞こえているであろう時は、目を細め甘いものを口に入れて舐めている様に笑顔している。少しエロチックに見える時もあれば、ひどく軽蔑している様に見える時もある。聞こえる心の問題だろうね、たぶん。
そして彼女は、自らはいつも正しくありたいと強く願っている。
もしも本当に人の心が聞こえるのならば、それは当然の選択なのかもしれない。
人は、心の内で大なり小なりの闇を散らかしているだろうから。
言葉にはユーモアがあるからね、でも心にはほとんどユーモアないからね。
まるで顔がハリネズミだ。
常連の鏑木エリ八十七歳にオレンジが似合いますよと派手なワンピースを推薦、鏑木エリは、あらこんな服、初めてだわ、こんな派手な服似合うかしら、と三種類くらいの発音バリエーションで連呼する。鏑木エリもたぶん内心では同じ事を何度も言ってしまっている事に気がついているからだろう。水野知子は素直にこの老人と対面し続ける。老人がこんなにこんな私に必死になって派手な服を薦めてくれる、なんだか買わなくちゃ申し訳ないわ、でも少しこの生地が気に食わない、ボタンも固い、丈も少し短いし。あらあらそんな事ないですよ、この生地、少しごわごわしてるかもしれないけど、すごく丈夫なんですよ、ボタンもしっかり縫われてるから最初は固いですけど、とれて無くなってしまうなんて格好悪いですよね、丈は重ね着でお洒落に合わせやすい長さなんですよ、私が素敵だって保証します、誰かがなにあれって鏑木さんの事言ったとしても私がずっと素敵だって思ってますから大丈夫。鏑木エリ八十七歳の心が動く。
食べ物とか睡眠とか健康に良いよって言う人たくさんいますよね、でもホントに大事なのは心のトキメキですよ、お洒落してときめくと健康にもいいし、確実に若返るんです。水野知子の笑顔はまるでハリネズミだ。
常連客、鏑木エリには水野知子が密やかに付けた通称がある。
鏑木エリエリレマサバクタニ。
主よ主よ、なぜ私をお見捨てになったのですか。
鏑木エリはいつも買ってしまった洋服を後悔しているらしい。派手な服は全てタンスの肥やしになっている。それでも水野知子は数週間後にはオレンジのワンピースを再び推薦し、初めてだわ、こんな派手な服似合うかしらのやり取りを始める。
「私、人の心が聞こえるのね、これはホント」
後悔を生み出して、それを救う、水野知子は救世主なのだ。
「いつも正しくありたいの、正義の味方になりたいの、そのために悪い人とか心の毒とか育てて、それを救ってあげるの」
蟹江鳥生はへらへらして一口、ビールを飲む。
「怖いね」
水野知子は不思議な顔して覗きこむ。
「蟹江さん、空っぽですね」
「心が読まれるなんて嫌だし」
「そうですよね」
「僕は正しくなれないし」
「悪い人にもなれないし」
「そうだね」
「どちらでもない人」
「そうだね」
「どちらでもない人は好きな人を傷つけるって知ってる?」
水野知子は蟹江鳥生を悪者にするつもりだったけど、失敗だった。
「知ってるよ」
「そっか」
少し水野知子が悪者になってしまった。
箱のアイスクリームもポテトチップも柿ピーもどれも中途半端に口が開いて、叫んでる。食べろよ食べちまえよ、ほら知子、お前のじゃないのに食べちまえよ、叶えたい事がちっぽけすぎるって食っちまえよ、悪者になってやるって事もある意味の正義だ、ユーノウ?
「アイノウ!」
食らいつく知子。
「ありがとう、手伝ってくれて」
感謝される知子。
「次は何を叶える?」
「叶えてくれるならどれからでもいいよ」
水野知子はアイスクリームの箱を床に叩きつける。
しー、人差し指で口びるを押さえられてるみたいな空気。
心の中で思っていた。父が酒に溺れ、母が愛人と逃げたのは、どっちでもいいってばかりでどちらでもないってばかりのお前のせいかもしれないんだよ、と。
「母の頬を褒めに行こう」
小さな旅行をする事になった。

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