優しい乱暴 原案小説その3

俺はまたバス停に居た。
八十五歳の女の子は毎日終電過ぎのバス停に座っている。
「あなたを最初に見つけた日に、水野知子という女と知り合ってね、仕事を手伝ってもらう事になって。客を待ってる間中、遠くから俺を眺めて笑ってる感じの悪い女だったのに私人の心が聞こえるってこれはホントなんて言うからおもしろそうだなと思って雇ったんだよ。心が聞こえるって事は喋らなくていいって事で生まれてからずっと喉の調子が悪い俺にとってはとても便利だよ」
夜空の星はほんの少し点滅している。
それが瞬きとタイミングが重なってずっと光っている様に見えてしまう。
それに永遠を感じる。たまたまのタイミングでしかないのだが永遠を感じる。
老婆はそれが理由で八十五歳の女の子なのだ。実際に何歳か聞いたわけでもないし、すごいスピードで老化してしまう病気の女の子ってわけでもない。
普通の老婆なのだ。それでも女の子なのだ。
 よく笑う。
ずっと笑っているわけではないから、よく笑う人だと思う。
悲しげな表情が基本の顔なんだと思う。
俺に心が読めたらいいのだけど、ただ観察して感じるしかない。
水野知子はその夜は酔いどれだからと断りたぶん俺の心を聞いていた。
老人に興味なんて本当はないよ。
確かに老人の偉大なる経験は大いなる科学の進歩により力を失いつつある。常識が急速に変化している。少し先の未来はいつも誰も経験のした事の無い出来事、感覚、経験に溢れている。しかもその進歩はタイミング良く、いい塩梅で進化するため劇的な変化に感動する事無くじわりと日常に溶けていく。身体から慣らされ、思考は何かを犠牲にしながら新しい科学の力に飲み込まれまるで科学が己の思考、能力であるかの様な誤解を真実と受け入れていく。
俺の死んだ祖母がよく自慢していた。もうおばあちゃんだけどね、空で友達の電話番号が全部言えるの、まだまだ頭は大丈夫でしょう、切株の切断面の様な顔で笑っている。その容姿は美しい人間の年輪にも見えるし、箇所箇所で腐敗し虫に食われ雨に濡れるか細い枝にも見える。醜いものは眺めている間は芸術的だが、触れると後悔する。ぬるぬると悪臭を放つ。
「昔の電話番号は語感と配列がいいのよ、憶えるのが楽しいの、でも最近の番号はとても雑でお粗末、憶える気がしないからおもちゃに任せたらいいの」
八十五歳の女の子には科学はおもちゃだ。
偉大なる経験の勝利。俺の思考は大量生産商品程度に退化しているのだ。
よく見ると両手に抱える様に持つ小さなバッグもずいぶん年老いていた。もう数千と繰り返したかの様な仕草で中から手垢色の紙を出し、折り目が破れない様に丁寧に開く。手紙らしい。
「読んでくれる?」
文字がかすれていて俺には読めなかった。
「残念」
「ごめん」
「男の人に読んで欲しかったの」
「手紙」
「そう、男の人からの手紙」
昔の人は字が上手だ。ぼんやりと見える文字でわかる。でも上手すぎて読めないというのもある、上手にかすれすぎているのだ。
「上手にかすれすぎるというのは、おかしな言葉ね」
「字が上手すぎて、そしてかすれすぎてて、ですね」
「私何度もこの指で字をなぞったの、何度も何度もなぞったの、だから上手にかすれすぎたんだわ」
「だってたった一通しか手紙をくれなかったんだから」
「男の人」
夜空を見上げていた。
遠くの別の国からもあの星は見えるかしらと喉がかすれて。
どの星の事やらわからないけど、見えますと言おうか、やっぱりどの星ですかと聞こうか、迷ったあげく名刺を渡した。
「由利さん」
「はい」
「どの星なんしょう、二人に見える星は」
「わかりません」
「わからないことに優しさをねだってごめんなさい」
「いえ」
「電話番号も昔は多すぎなかったから語感と配列がいいのよ」
祖母は憶えてる事を証明するため暗唱する時、まるで歌う様に、または俳句を詠む様にリズミカルだった。
「たった一通だったから、美しくて、一文字残らず憶えているのよ」
俺はまたバス停に居た。
八十五歳の女の子は毎日最終過ぎのバス停に座っている。
手紙を読む君は、もう全部憶えているから歌った。歌っている様に読んでいる。
「夜よ明けるな、バスよ来い」
あの日以来、最終過ぎのバスは来ない。
始発の酔いどれに交じり、とおきしまよりとぼそぼそ歌い出し、気怠さの合唱が静寂になる頃に見失ってしまい俺は蟹江鳥生の家に帰宅するのだ。

 小さな旅行。
電車に乗って二時間かからない程度のところに蟹江鳥生の母を尋ねた。頬の傷を褒めるための旅は、なんとなく空気が重くなるので目的はあまり考えない事にしている。昼時を過ぎ、それほど腹も空いていないが駅弁という響きに誘われ弁当を買い、水野知子は相変わらずビールを買い、車内で駅弁ファックとベントについて語り合う。挿入方法と排出口という低俗な話をさもジェンターとシェルターとコアを言葉遊びで並べて知的なふりをする。ビールの緩いアルコール度数がジョイント的なのだ。会話も言葉もファッションする。それくらいに蟹江鳥生の母の頬の傷がどの程度か知らない二人にとっては浅いのだ。他人の暗い記憶に触れるとはそういうものだろう。とくに醜さは触れると芸術ではいられなくなるのだから、芸術の一部である娯楽には絶対になり得ない。旅行はとあるグループにとては娯楽になり得るはずだが、他人の三人では目的にしか到達出来ず娯楽であるのか苦行であるのかただの過程であるのか判断出来ないものだ。まるで見ては楽しいがその花びらには触れた事が無い道程気分。ドウテイ、童貞、童貞と処女は類義語で良いのか、という討論の途中で目的の駅に辿り着き、たった二時間弱のくせにメニエール病患者になった気分で電車を下りる。駅から徒歩十五分。この駅で下りるのは初めての事だ。そして目的地の集合住宅の一室を尋ねるのも初めての事だ。それでも十五分で着ける事はわかる。寄り道は無し。十五分とわかるなら十五分以内に到着したいと考える真面目な人種の僕達私達です。真面目って嫌いです僕達私達です。真面目さのあまり十五分と言えば、という討論をする始末。結果はというと十五分と言えば休憩睡眠の快適時間だと結論に至るが、徒歩十五分はまるで遠足だ。大人の遠足。子供の二時間の遠足が大人の十五分の遠足であると立証され結論が生まれたのだ、それくらいにドラマチックに無言。
 結果、十二分五十四秒。
 階段を上がりなんだか鼻の下がのびたみたいな玄関のドア前に到着。
 到着まで、十三分四十六秒。
躊躇わずにインターホンを押す水野知子。ドアスコープに小指を立てる由利寿文。おそらく留守を祈っている蟹江鳥生。
「どうして」
「だってまだ、何て言っていいのか決めてないし」
「かわいいがいいんじゃない」
「女だからね」
「そう、女だから」
「ちょっと微妙な‥」
水野知子は再びインターホンを押す。
「叶えたい事叶うのこれで何個目だっけ」
「聞くの?」
「自分の事だろ」
「でもさ‥」
「わかんないの?」
「どうだろ‥」
「その答えじゃ、叶えたい事はまだひとつも叶えられてないって事じゃないの」
「わかる」
「でも一週間生活してくれたよ」
「家族の様に?」
「家族じゃないでしょ」
「でもぽかったんじゃね」
「まあぽかったんじゃね」
「じゃあひとつは叶ってるよ」
「わかる」
「わかる?」
由利寿文がドアスコープに立てた指をステップして薬指に変えた。
インターホンを鍵盤の様に叩く水野ヴェートーヴェン知子。
「ちょっと私、顎われてる人みたい?」
立てた指が中指に変わる。
「箱アイスとポテチと柿ピー買ってきて」
「ふたつめ」
「三ついっぺんに叶えちゃえばいいんじゃない」
ドアのあちらで物音がして、つま先くらいドアが開く。
隙間には頬に傷のある女が見える。何だか驚いてしまって開いた十センチ程度の隙間一杯が顔の様な気がして見えた。そんな反応の三人。
あ、と由利寿文が漏らす、言葉を漏らす。水野知子は顔の下半身に笑みを漏らす。そして肝心の蟹江鳥生はただいま、と言ったつもりの心が漏れる。
鍵が外されて、頬に傷のある小さな女がいる。
軽く会釈され、どうぞと言われた気がするが本当は何も言っていない。それでも聞こえた三人はぞろぞろ、部屋に入ってみる。最期に蟹江鳥生が、おじゃまします、と声を出した。水野は顔面全身で笑った。声帯は使わなかった。
部屋は灰色だった。まるで薄い記憶の様な色をしている。化粧台の上にむき出しの口紅だけがやけに赤くて。顔に傷のある女はとくに言葉もなく、椅子に触れ、座れという様な仕草をして台所の奥にある冷蔵庫を開けている。蟹江鳥生は先にまるで指定席であったかの様な椅子に座り、由利と水野に座ってと食卓を指差した。テーブルクロスのレースは白だ。花瓶に飾られた花は今日枯れたのだろうか、そんな雰囲気。女が箱のアイスクリームをおもむろに置く。バニラと呟く。三人にスプーンが配られる。ひとりだから、お皿無くて、ごめん。と片言のリズムで言う。蟹江鳥生が箱にスプーンを突っ込んだ。
「あら」水野はそれを驚いた。女が冷蔵庫を開け、柿ピーとポテトチップをテーブルに放り投げる。蟹江がアイスを一口。水野が由利をスプーンで指しながら声帯を使わずに顔で何か言っている。
これ、全部、蟹江が、一人で、食えば、祈り、叶う。
「前は手伝っちゃったから」
最初から声に出して言えよ、と由利は思う。
「でもお母さん食べるかもね、それはちょっとダメって言えない」
そこは声に出すなよ、と由利は思う。
蟹江はアイスクリームをじっと眺めている。
「溶けるよ」
頬の傷が喋ると想像して声を聞いたらぞっとした。
由利はじっと頬に傷のある女を眺めている。
蟹江はゆっくりと箱にスプーンを突っ込んで、母を見る。
「ちょうだい」
「母さん」
蟹江は母の口にバニラを運ぶ。
「甘い」
「かわいいね」
上野が無言ではしゃぐ。
「女だから」
「そう女だから」
蟹江は自分の口にアイスを運びながら。
「頬の傷、かわいいよ」
母は柿ピーに手をのばす。
「あら」
「食べる?」
「じゃあ柿だけ、ピーはいらないです」
母から水野へ水野から由利へ、そして由利から蟹江へ柿の種がバトンされていく。アンカー蟹江がぼりぼり。
「私も」
母がピーをぽりぽり。蟹江の祈りは一つ叶い、一つ叶わなかった。ただ母の頬の傷を褒めたいと言っても褒めるだけで良いのか、褒めるという事は相手が嬉しがる事で叶えられるのではないだろうか、ただ褒める事だけで満足し、褒められる事が嫌いな人間もいるのだけれど、母の頬の傷を褒めるという事は、ただ褒めたいという事より別の意味があったのではないだろうか、父の嫉妬でできた傷のはずだ。その傷のせいで母とお別れしたはずだ。それでも蟹江はただ褒めて、そのままアイスクリームを母と食べ続けた。母はあまり表情もなく、笑顔も涙もない。蟹江にも表情も笑顔も涙も無い。アイスクリームが無くなる頃にもう一度蟹江はぼそりと。
「頬の傷、かわいいよ」
由利はふと思った。もしも頬の傷がなければ、蟹江は母を褒める事はなかったのだろう、そして、もしも頬の傷がなければ、バスを待つ八十五歳の女の子に似ていると。なぜか涙が溢れて、それはあまりに場違いで我慢した。
煙草に火を点けると、ゆらりと煙が出て、悲しみの狼煙に見えてやたらと恥ずかしくなって、息をたくさん吐いた。
そんな由利を蟹江はニコニコして煙草をせがむ。
「吸うの?」
「少し」
蟹江は煙草を吸い、むせて、泣いた。
由利はそれを笑った。
水野は少し寂しくて酒が欲しくなった。
テーブルの上に古いワインが起立した。
「赤」
「飲みます」
頬に傷のある女と上野は酒を酌み交わす事になった。
グラスは無くボトルがバトンされていく。戦場のアメリカ兵みたいだと蟹江もワインをねだる。とても嬉しそうにして。酔いのせいか、頬の傷も嬉しそうにしてる、だから由利は八十五歳の女の子と頬に傷のある小さな女が似ている事を話題にするのをやめた。
「次は何を叶える?」
水野はそう言いながら殺し屋を検索している。

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