優しい乱暴 原案小説その1

 チックタックチックタック、んんー
薄暗い電気会社の社宅跡地みたいな部屋で十日前にベッドの傍の時計が壊れて、蟹江鳥生は目覚め続けている。
眠ってしまえば、もう自分で目覚めるしかない。自分で目覚める自信が彼にはなかった。まるで目覚める必要がないかもしれなくて。
「一人分の料理は難しい」なんて言いながら自炊は割と好きだと言う。
「好きだ」
「二人分はどう?」
「慣れていないんだ」と言う。
「じゃあ、大勢分は?」
「やったことがない」
「じゃあもしかして‥」
「一人分が得意だよ」
由利寿文は意地悪を優しい表情にして聞く。
熟したアボガドの皮が剥がれやすい感動みたいな顔。
するりどろり。

「風が吹くんだよ、ビル風みたいなの。
 ちょうど吹き溜まりらしくて、暑くて窓を開けていたら砂が交じっててじゃ
 りじゃりしちゃってさ、靴下が汚れたらごめんなさい」

床はほんのりじゃりじゃりしてて。
まるで薄い砂漠。ハゲ、砂漠、ハゲの砂漠、ハゲ砂漠。
でもじゃりじゃりってもしかして髭の事か。
蟹江鳥生が苦笑う。
彼の部屋は真顔だった。
一人が立つのがやっとの台所には、冷えきった味噌汁が入った小鍋と保温されすぎた乾いた白米の入った炊飯器の真顔。台所の小窓は閉められているが鍵が中途半端に外れてマヌケの真顔。寝床のしわはぼんやり膝をかかえて真顔。人間椅子だとしたらどんな野郎だよ、とボケてみる真顔の合皮の椅子。一粒一粒真顔の砂。白熱灯のくせに冷たい真顔の電球。
真顔だらけ。真顔まみれ。
部屋の主人公である蟹江鳥生がおもしろいと思って言ってみたのだけど、部屋はしんとする。
自分は自信が無い様にして自分を守ろうと考えつつ、笑えたら、もしも由利寿文が笑ってくれたら、何だか、なんだかんだ楽しめる気がして由利寿文の機嫌を観察してみつつ、どうかなどうかしらと苦笑いしてみたのだけど、あらま、ほい、しんとする。真顔真顔、部屋中真顔。

古い冷蔵庫が遠い記憶のボーリング場の音に似ている。

 蟹江鳥生が切り絵の余りの紙片に見えて、そこをかわいい丸で縁取ってしまってみたものだから、部屋は吹き出した。一斉に吹き出して笑った。
蟹江鳥生の吹き出しの中の由利寿文。笑ってしまっていた。漫画の様に。
由利寿文は笑いたくなんてなかった。
この事象は俯瞰で見るとおもしろいよ、と感じたかもね、そうかもね。
その証拠に、部屋に由利寿文の助手、水野知子が戻った時、二人の男を見て再び遠い記憶のボーリング場の音がした後に一斉の吹き出し笑いの渦に混じる事になった。
苦笑う蟹江鳥生。
しまった由利寿文。
水野知子、大笑い。
大笑いの右手にはスズランテープ、左手にはバケツがぶら下がっていた。
両手とも、真顔で。

 おはよう。

蟹江が由利を起こし由利が水野を起こす。蟹江の料理が上達したのは、毎日三人分の調理をしているせいだろう。何にも無いまま一週間が過ぎていた。
 山積みだった無数の本がスズランテープで縛られ、散らばっていた無数の靴が整理されている。床のじゃりじゃりも無くなっている。バケツにだけ少し砂が残る。腕まくりした水野が缶ビールをコップに注いでいる。由利は煙草を吸いながら蟹江の作ったハムエッグを齧る。
「味がわかるの」
「煙草?」
「いや」
由利が吐く煙草の煙が懐かしい朝の匂いだと蟹江はふと思う。
ピースの香ばしい匂い。
「さて」
由利が煙草を吸いハムエッグを齧りながら眺めているのは蟹江のメモ書きで、そこには叶えたい十の事が書かれている。
家族の様に暮らしてみたい。一週間でもいいから。
「ひとつ、叶えたね」
水野がぼそっと。
「まだ」
由利が蟹江を見る。
 両親は、どうしようもない人でなしだった。だけど愛情は深かった。その日はご機嫌でたくさん愛されて、僕はとても幸せだった。だけどその日に、母は別の男と愛し合い、父は嫉妬して母と男をさっきまで豚肉を切っていた包丁で傷付けた。ちなみに豚肉を食う人は短気になるらしい。父は母の頬に切り傷を作り、愛人である男の人差し指を切断した。反省のあまり死にたくなったらしいけど、まだしたい事があった。だから生きた。でも四六時中酒に溺れた。強いのか弱いのかわからない人だ。頬に傷のある母は、人差し指がない男とどこかに行っちゃった。二人とも素面だったから。父は生きながら酒に殺された。
ずっと酔ってるから今が消えてしまう、じっと煙を吐きながら僕を見る視線は知らない人を見るようだった。でも今考えてみると、僕の顔が母に似ていたのかも知れない。父には今が消えていたから、そうだったのかもしれない。
「蟹江鳥生は酒飲むの?」
「少し」
由利はヒヒヒと魔女の様に笑って毒リンゴの絵を描く。毒リンゴと言うよりも腐ってるリンゴに見えるけど、それを、はいどうぞ、と小さな子供にするみたいに蟹江に何度も繰り返した。
あまりにしつこくて蟹江は機嫌が悪くなる。由利は上機嫌で毒リンゴをもう五十くらい書いている。蟹江のメモ書きの二ページ分が毒リンゴで一杯になっていた。
「僕のメモ、塗り潰してるじゃないか」
由利が塗り潰したのは両親が人でなしだったところで、安心しろと言う。
両親なんて何の良心でもない、気にするな、自分を生きろ。良心と両親をかけてるみたいだけど意味不明だ。でもなんだかわかる気がすると蟹江は思いつつ不機嫌をおさめる鞘が見つからず抜身のまま、水野の缶ビールを横取りしてみたが、十数本が空になっている。ますます上機嫌の由利は箱に入ったアイスクリームとポテトチップスと柿ピーを買って来いと水野を買い物に行かせる。
「ふたつめ」と蟹江は聞いたが由利はメモ書きをじっくり音読し始めた。
友達とライブに行って盛り上がりたい、女の子と楽しい事がしたい、先住民族と精霊の儀式がしたい、殺し屋を雇って人助けを依頼したい、母の頬の傷を褒めたい、ハンバーグを8キログラム食べたい、めちゃくちゃに踊りたい、椰子の実の女の子を恋人にしたい。これが僕の叶えたい十の事です。
蟹江が泣いてしまう。
水野が帰宅。
「由利、やっちゃった?」
水野の右手には、頼んだ買い物が入った袋。左手にはその3倍の容量の缶ビールが部屋の温度のせいで泣いている。

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