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【29日目】いい子ではなかった我の行く道は人を罵るだけのニンゲン

世間はお盆だという。
正式にいつからいつまでがお盆なのかもいまいちわかっていないぐらい、
わたしの家はお盆を過ごさない。

母の実家は新潟にあって、帰省は長岡花火に合わせて行ってきた。
父の実家は建て直して、もう私たちの家になっている。

父方の祖母はもう亡くなっている。
母方の祖父母はまだ存命ではあるが、わたしは仲良くできていない。

わたしは、祖母たちに愛されてこなかった。

両方ともにとって、初孫はわたしの兄だった。
兄は生まれた時、心臓に穴が空いていた。
何度も入院と手術を繰り返していたそうで、一度は死にかけた。
ちょうど母方の祖母が代わりに見といてくれるというタイミングで、
心臓が止まった。
母が急いで帰ってきた時には、ぱっちりと開いた目と目が合ったそうだ。

祖母が一番衝撃と、不安を感じたことだろう。

生き返った結果、彼は天才になった。
とてつもなく賢く、聡明で、優しくて素敵な子になった。

祖母にも溺愛されていた。
2人で死を乗り越えた、という絆があったのだろう。

そして、わたしが生まれた。

新潟に帰るたびに、わたしは「扱いづらい子」だと言われていた。
何もできない、生意気で、むかつく子だと思われていた。

母方の祖母にとって、初めての女の子で、唯一の女の子だった。
新潟に住む母の妹の子どもたちは全員男の子で、
わたしだけが女子であった。
きっとその影響もあったのだろう。

「女の子は面倒臭い」

ずっとそういう目で見られていた。
兄とは4つ離れていたから、朝もよく寝てしまう。
それに対しても「怠け者」だと言われて育った。
ご飯もまだ野菜が食べれなくて、残したりするから、
「どうせ、あんたは何も食べないんでしょ」と言われた。

毎年行くたびに、そういう少しの棘を感じながら生きてきたから、
お利口さんになろうとした。

朝、誰よりも早く起きて、祖母の庭仕事を手伝う。
でも、それも面倒ごとのようにため息や嫌味をつかれる。
だけど、手伝わなかったらそれはそれで
「ばあばは頑張ってるのに、あんたは」と言われる。

純粋にイケズな人だったのだろう。
『虎に翼』で描かれている新潟支部の人たちもめんどくさいし、ややこしい。
イケズで、田舎っぽい。
そういう風土でもあるのだろう。

わたしがダメだったからなのはわかっている。
食わず嫌いをするし、遅起きだ。
兄のようにはイケズを受け流せないし、口も悪いから良くない。

ずっとわかっているけれど、
帰省が苦手だった。

兄だけが愛されている

そう感じていた。
わたしになんて興味ないし、目障りだし、愛されてなどいない。
いや、そこまででもないかもな。
その確信があればきっともっと早く、決別しきれていただろう。
だけど、そこまでのことはできなかった。

帰省したくない、なんて言えないし、
長岡の花火は大好きだった。

母と祖母も折り合いが悪くて、どちらからも悪口を聞かされていた。

今ではそういうのも虐待にあたると言われている。

わたしは、不登校であったし、生きるのが下手で生意気であったから、そういう点でも母は責められたり怒られたりしたことだろう。
それでも、母はわたしを守りに抜いてくれたし、
学校に無理やり行かされたりしなかったことが最大の救いだった。

母も実家に帰るのが嫌なことには気づいていてくれて、
ちょっとだけ我慢しようね、と言っていた。

祖母も過酷な幼少期を送ってきたそうだ。
養子に出されて、ポツンと浮いたような日々の中で、意地の悪いおばあちゃんにいじめられながら寂しい思いをしていたと最近知った。
長岡空襲の頃でもあったそうだから、戦争をよく生き延びたすごい人だ。

野菜をたくさん育てて、送ってもくれる。

素敵な人ではある。
だけど、わたしは連絡が取れない。
怖くて嫌で仕方がない。

高校3年生の時、受験があったから帰省をわたしだけがしなかった。
母と兄だけが行って、うちで飼っていた犬がちょうど死んだ。

翌年からコロナ禍になり、
4年間、祖母たちには会っていない。

祖母もLINEを使うようになって交換はしているけれど、
わたしは優しいLINEを送れない。
うまく返事ができず無視してしまう。
上辺だけのお返事ができない。

やっと祖母の棘も取れてきた。
寂しいらしいともわかる。
祖父の介護が大変なのもわかる。

だけど、わたしは許しきれていない。
たまに電話で5分だけ「可愛い孫」を演じる。
5分だけ、優しくて優しくて気にかけてくれるいい孫を演じる。

心を押し殺して、感情も過去も無かったことにして、
「ばあばはよく頑張ってるよ、本当にありがとうね、大変だよね、本当にすごいよ」とたくさんいう。肯定して、「長生きしてね、幸せに過ごしてね」という。

兄は定期的に電話をしてくれているようだ。
「とかげって就職したの?聞いていいのかわからなくて」と言っていたと聞き、
「ああ、そうか、わたしはそれすらも伝えていなかったのか」と驚いた。
母が伝えているかと思っていた。
だけど、ちゃんと伝えなきゃいけないことだったと反省した。

きっともう時間はないだろう。
自慢のできる孫にはなれそうにない。
わたしは、どうしようもなく悲しかったんだな。
この文章を書いていても、苦しくなってしまう。

愛されていたかった。
もっと優しくされたかった。
悲しい思い出がいっぱいだった。
そしてそれを無かったことにしてきた。

父方の祖母については今までも少しずつ書いてきたけれど、
酷いアルツハイマーであった。

でも、その前から『女』が嫌いだったのだろう。
男三兄弟を女で一つで育て上げたけれど、
長男である父はサイコパスみがあり、次男は完全なモラハラだ。
三男だけは言葉が通じる感じがある。

ずっと嫌悪されてきた。

わたしと母の言動は常に見張られ、何かを盗んだ、と怒鳴られていた。
一緒に住むようになった時にはもう進行していたけれど、
わたしたち以外には外面が良かった。

だから、わたしたちの訴えは伝わらなかった。

あの頃を思い出すことが今のわたしにはできない。
なぜだろう、一瞬であの頃の気持ちになってしまい、世界が灰色になったような感覚に陥った。

3年前、祖母について書いた。

このnoteの記事から、AbemaTVに取材されたこともある。

だけど、今のわたしは書けなくなった。
どうしよう、怖くて仕方がない。頭がまとまらない。

わたしもいつかああなってしまう。
もうそうなってきているのではないか。

わたしの人生は、いまだにいろんな傷が残っている。
想像しているより深く、きつかったのかもしれない。

書くことで昇華させようとしているけれど、
まだうまくいかない。

ああ、どうにか、楽しい日々なりたい。

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