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食卓にふさわしい音楽を考えてみよう

3/10
note連載Day:60です。
睡眠時間22:16〜4:55 実質睡眠 6h2min. 睡眠スコア80
やった!わりと理想通りな睡眠!
あとはもう少しの微調整と継続よ!

さて、昨日の仮説の続きを検証していきます。
"音楽×食で、食卓の価値をアップデートすることはできるだろうか?"
です。
食卓での音楽というと『クラシック音楽』がすぐに思い浮かび、
西洋型のダイニングに洋食、上品に食事を摂るイメージが映像化されます。
それはそれで良いのですが、
私がイメージする現代日本の食卓においては、
このハイソなイメージが先行しすぎていて馴染めなさそうだし、
そのイメージに引っ張られて、"楽しい食事"になるか?というと実現は難しそう。
お茶の間でテレビを見ながら、他愛もない会話を交わすのが一般的と言えそうですし、これもまた日本の食文化らしい趣きがあります。
とはいえ、『各々、好きにしてください。』で締めてしまっては、
食×音楽の可能性を放棄してしまうので、
もう少し思考を深めてみましょう。

今回もまた、参考になりそうな本で模索してみました。
"泉谷閑示 著 / 本物の思考力を磨くための音楽学"より、
食卓での音楽の価値をアップデートする解法が汲み取れそうな部分がありました。

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こちらの本では「生きる意味」について、
音楽学を中心に深く哲学しています。
この本のなかで、イヴァン・モラヴェッツの演奏に対して、
『自我がない』と表現したことに驚嘆しました。

”目を閉じて聴いていても、通常は何がしか浮かんでくるはずの演奏者のヴィジョンが、まったく浮かんでこないということでした。(中略)ひょっとしてこのピアニストには「自我がない」のではないかと思うに至ったのです。(中略)その時々によって精神的なコンディションの違う聴き手側の内面の状態が、彼の演奏によって、いわば鏡のように照らし返されることになる。それが、聴くたびに印象が異なるという不思議さのカラクリなのではないか、ということを思ったのです。"

(泉谷閑示 著 / 本物の思考力を磨くための音楽学 P.118 ヤマハミュージックメディア 2019)

この音楽を著者は『超越的0人称の音楽』と称し、
"「1人称」的なおもしろさや熱狂的感動とはまったく質の異なる、静謐で瞑想的な時間が、彼の演奏には共通して認められたのです。"
という。

これは凄い表現!と思い、即座に聴いてみましたが、
クラシック系に疎い自分では、
『超越的0人称の音楽』なのかどうかということはまだ判りかねました。
とはいえ、この定義は面白い。
聴き手側の内面の状態が、鏡のように照らし返される音楽の延長線上に、
食卓での対話が豊かになる音楽が在るのではないか?
主体はプレイヤーではなくリスナーであろうとする音楽。
そういった音楽に促されて食卓での対話が弾むかもしれない。
そういった音楽を模索したいし、手がけていきたい。

ということで、
そんな音楽になるかもしれないモノたちを紹介していきたいと思います。


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