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スマホはあなたの代わりに塵となる

その女性はいつも決まって木曜の早い時間にやってきた。

注文はフルーツを使った1杯。ゆっくり飲みたいから量の多いロングカクテル。毎回その時おすすめの新鮮な果実を使ってお作りしていた。多くても月2回の来店で、たまに仲の良い女友達を連れてきてくださった。

あれは2月頃だったろうか。少なくとも冬にあたる日付だったのは間違いない。彼女がいつもとは違う曜日の遅い時間にやってきた。注文はいつも通りフルーツのカクテル。そこに変化はない。その時は旬のデコポンを使ったカクテルを提供したのを今でも覚えている。

カクテルを口に含んで落ち着いたのか、彼女はおもむろに語りだした。

「じつはさっき同棲してた彼氏と別れたんです。」

なるほど、この話をしに来てくれたんだな。僕は瞬時にそう悟って黙って話を聞く姿勢をとる。

「わたし、人の話をあんまり真剣に聞かなくて。それが彼にとっては耐えられなかったみたい。」

彼氏が"わたし"の話をちゃんと聞いてくれないと悩む女性は多いが、意外に彼女が"ぼく"の話をちゃんと聞いてくれないと悩む男性も多い。

「今日も彼のささいな話を私が片耳で聞いてたのが気に入らなかったみたいで。」

どうやら話を聞いてくれない彼女に対して怒りの沸点が訪れた彼氏はキレてしまったようだ。日ごろから彼女が自分の話を聞いてくれないことに不満がたまっていたらしい。

「私はなんで彼がそんなに怒っているのか理解できなくて。必死になだめようとしたんだけど。私のスマホをおもっいきり壁に投げつけられて・・・。『なんでお前は人の気持ちがわからないんだ!』って・・・。」

そういって見せてくれたスマホはボロボロで見るも無残な姿だった。あんなに原型をとどめていないスマホというのも珍しいかもしれない。

「わたし、怖くなっちゃって。彼が嫌いになったわけじゃないけど、こういう時に物に当たる人と一緒にいられないって。それで家を飛び出してきたんです。」

同棲していた彼女に今日帰るべき家はない。スマホも壊れていて友達に連絡をとろうにもそれすらできない。この後どうするのかと聞いたら「最悪朝まで適当にぶらついてそのまま職場に向かいます。」という。「それはよくないから漫画喫茶でもなんでもいいから泊まる場所を確保したほうがいいよ。」と伝えるとと彼女は他人事のように「それもそうなんですよね。」と答えた。

結果的に彼女は2杯のカクテルを1時間ほどかけて飲みほしたあと、住所のわかる仲の良い友達の家に行ってみるといって店を出た。今になって思えばはじめから放浪するつもりなどなく、ただとりあえず気持ちを落ち着けるために"いつものバー"に寄ってくれただけなのかもしれない。

後日、彼女はその友達を連れて店にやってきた。嫌な思い出を掘り返すのも悪いかなと思ったが、思い切って話を振ってみたら「翌日すぐ荷物を取りに行って関係を清算してきました。」と笑いながら教えてくれた。どうやら彼女にはもう今回の件についてのわだかまりは特にないようだ。

じつは彼女に限らず、恋人に別れ際にスマホを壊される人は多い。そんなに繁盛店で働いたことのない僕の少ないサンプルのなかですら年に1人はいるくらいだから、世間的に見たらわりとありえないことではないのだと思う。

そしてなぜか彼女(彼)らは壊されたスマホを片手にまず僕のところにきてグラスを傾けながらその話をしてくれる。連絡手段を奪われて誰とも連絡がつかず、ゆいいつ気軽に話せるのがバーテンダーだったのだろう。

スマホを壁に向かって投げつられた人、マンションの屋上から落とされた人、膝でへし折られた人、トイレに捨てられた人・・・壊され方はさまざまでバリエーションに富んでいるのだが意外にもその時の喧嘩の原因は浮気ではないことが多いのが不思議だ。

きっと、現代人にとってスマホとは第2の自分なのだ。それはつまり恋人にとって、あなたのスマホはあなた自身に近いものということになる。浮気が原因なら本人にあたればいい。しかし、もし別れの原因が性格の不一致やささいなすれ違いだとしたら、そしてそれをお互いが心のどこかで認めていたら。やり場のない怒りが恋人の分身たるスマホを破壊するという方法によって発散されるというのもあながち間違ってはいないのかもしれない。

恋愛には常にどんな危険が潜んでいるかわからない。僕がたびたび遭遇するこの不可思議な事件から得た教訓はこうだ。

"恋人にスマホを壊されてしまうことを想定して、帰りぎわに落ち着けるバーとバーテンダーを見つけておこう"


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