何のまえぶれもなく。

季節が換わったので、今日は夏用のスーツを今シーズン初めて着た。お気に入りの服を身にまとう女子が、少し自分がきれいになったと思うように、今日の僕はいつもよりも背筋が伸びて、清潔な印象を与えているのだろう、と勝手に思っている。

仕事が終わり、僕は井の頭線を降りて吉祥寺で中央線に乗り換える前にちょっとだけアトレに立ち寄った。アトレはJR東日本の子会社が経営しているショッピングモールだ。

お菓子のスタンドに、中年女性が数人群がっている横を抜ける。花屋では会計を待つ人達が行列を作っている。それからパン屋に鼻腔をくすぐられ、ちょっとしたステーショナリーのお店のカラフルな展示に目をとられ、インテリアショップでは部屋に置く芳香剤のラベンダーの匂いを感じながら次々と通り過ぎる。

本屋までやって来て僕は歩く速度をおとした。特にお目当ての本があった訳じゃない。意味もなく本屋をぶらつくのが好きなんだ。

平積みになった新刊書に沿って店の手前をずっと進んでいくと、僕の1m前を同じようにして、本の表紙を舐めるように観ながらゆっくりと歩を進める女性がいた。年齢は多分20代後半から30代前半。

それまで僕は本を見ながらゆっくり歩いていたのだけど、その視線の先に屹立する2本の彼女の白い脹脛が突然目に飛び込んできたのだ。空色のコットンのスカートがゆっくりと優雅な曲線を描いて彼女の腰からウエストにかけて絞りこまれていく。そのラインを、僕は無意識に目で追っていた。白いノースリーブのワンピースからのぞく華奢な肩と白いすべらかな腕が僕の目を捉えた。

足を止めた彼女が、ゆっくりと前かがみになる。少し茶色がかったストレートの長い髪が彼女の横顔を隠す。平積みの文庫本を手にした彼女の横顔がまた見えた。横顔全体が見え、一見女の子らしい顔だとおもったのだけど、よく見るとはっきりとした意志を持っているような強い光を秘めた瞳をしていた。数ページ読んだところで彼女は本を閉じた。口角をきゅっと上げて小さく笑った。その本を彼女は元に戻して、更に進んでいった。

僕は、彼女が立ち去ったその場所へゆっくりと辿り着いた。彼女はまだほんの50cmくらい先にいてまた平積みの本の表紙をゆっくりと品定めしている。

彼女が先ほど置いた本を僕も手にしてみる。

「失くした恋の癒し方」という題名だった。

反射的に彼女の姿を目で追った。
左手の薬指にはリングが光っていた。

突然、胸が高鳴った。

そして、僕は恋におちた。

何のまえぶれもなく。

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