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物語と教訓のその先について

問)この物語で筆者は何を言おうとしたか。筆者の主張について答えなさい。

…という問題を、私たちは数多く解いてきている。国語の世界では物語は作者が主張をするためのもので、国語の訓練をしてきた私たちは物語と見れば主張を読み取ろうとしてしまう。

SNSにおいても例外ではない。SNSでマンガを見ると、「つまりこの物語はこういうことだ」「こういう学びがある」という140字以内の要約をつけて引用リツイートをする。

コンテンツを「教訓」というコンテクストで読むことを私は個人的に「教訓読み」と呼んでいる。Twitterは意外とそういった「教訓読み」に適したフォーマットであり、気の利いた教訓を付けて引用リツイートするとたくさんの賛同(♡、RT)が集まる。Twitterのユーザーは「教訓読み」のプロフェッショナルである。

(私もそのプロフェッショナルの1人なので、やっぱり国語教育はダメとか、教訓読みをするべきではないとかは言うつもりはないが…)

では、物語を「教訓読み」でなく読ませるにはどうしたら良いか。

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Twitter、140字の勝負、気の利いたことを言って人気をとっていく合戦が面白いのは分かるけれど、要約、教訓、ライフハックがだーっと並ぶタイムラインを見て「こ、これじゃない…」と思うのもまた事実です。もちろん、要約やら教訓からこぼれ落ちるものの方に興味がある。

そもそも教訓などの「コンテンツの機能的優位性」で闘うなんて、コンテンツを用いた一番不信感のあるコミュニケーションではないか。信頼感のある間柄ではコンテンツの役に立たない部分、キャラがどうとか主人公の癖がどうとかで通じ合うことができるけど、信頼感がなくなっていけばいくほど些細な意味による共鳴はなくなり、共通項は機能的意味に収束されていく。コンテンツに興味ない偉い人へのプレゼンで「このコンテンツはこういうふうに"役に立ち"ます!」とゴリ押しするみたいに。

役に立つ、つまり生産性を高めるということが、読者の「お得感」を刺激して課金のトリガーになるということは分かる。また、そんな穿った見方をしなくても、切実に役に立つ情報を求めている読者がいるのもわかる。でも、生産性だけで測れないものがあるから物語を書いたり読んだりしているのだろう。生産性が高いこと、なんらかの手段たることが人生のすべてだとしたら、どの「私」も要らないだろう。

そして私がこんなにも「教訓」を否定するのは、実はうっかりコンテンツを「教訓」ベースで描いている自覚があるからだ。

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「教訓読み」は避けられない。何を書いても「作者のメッセージはこうですね」という感想が絶対に来る。なので、作品をSNSで発表する時は、読み取りやすいメッセージを1つ用意してあげるといい。「教訓読み」で読んだ時にきちんと感想が収束するようにする。誤解されることは避けたい。誤解したメッセージが広まって炎上することを避けたい。怒られたくない

こういう臆病な理由がある。(実はコンテンツの内容と関係がない理由ですが。いつかこの臆病さも超えたいと思っている。)

しかし臆病な今の私のままでも、できれば「教訓」の先のものも用意したい。そのためには、どうすればいいか。

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教訓のその先を見せるにはやはりディテールを充実させることではないかなぁ。エッセイマンガであれば、経験した人しか分からない事実を入れること。ディテールが荒いと「この主人公はこういうところが悪い、教訓はこれ」と容易に裁くことができるけど、ディテールが充実して、登場人物の人生が立ち現れてくれば、裁くことも難しくなる。

判断停止の状態でいるのが難しい時代なのかもしれない。大事だと思うけどな、エポケー。急いで間違った教訓を得ることで苦しんだりするから、そこを揺さぶられるのが物語を読む快感なんじゃないのか。それは生の経験や感覚を差し出すことで可能なのではないか。

谷川俊太郎さんが先日TV番組の中でこう仰っていた。「今は意味偏重の時代だけど、意味の前に『存在』がある」。この内容を正確に捉えるのはむずかしいが、なにかそこにヒントがあると思う。そして、意味偏重の時代への疲弊感を抱えている人は私以外にも多くいるのではないか。そのことを思うと、存在の描写を試みることは今重要なのではないか。

創作をしている時に、なにか現状に違和感があるのなら、「つまらないけどなんか売れそう」な方向を間違って目指さないように気をつけたい。納得を積み上げていかないと続かないから。

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教訓に関して、インターネットを見ていてもう一つの懸念がある。Yahooコメントなどを見ていると、「お気持ち」から「べき」を導くスピードが異常に速い。車椅子の客に迷惑をかけられて嫌だった→車椅子の人はもっと遠慮すべき、とか。身長の低い男は好みじゃない→身長170cm以下には人権なし、とか笑。例えば。
「いやだった」「こうすればいやじゃなくなるのかなぁ」「こうすべき!」の性急な三段論法(2→3が飛躍してる)をよくみる。一般人の感想でも十分に危機感を覚えるのに、コンテンツメイカーがこれをしていたらまずい。とくに社会的弱者の扱い。環境についての知識もなくなぜ気持ちだけで裁けると思うのか。「思ったことであればそれは事実なのだから一定の正しさがある」と言う人もいるが、それは素人の発想だと思う。教養の不足について危機感を持ちたい。


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