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言語化はだれのために

「一雨ごとに寒くなる」とは夏の終わりの母の口癖だった。このところお盆に降った大雨のおかげで、たった数日のうちにすっかり寒くなってしまった。真夏の間はなかなか眠れなくて腐心したのだが、今日は眠くて眠くて仕方なかった。

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「言語化」という言葉が流行っているようで、それも特にビジネスで役に立つとかそういう、生産性を高めるような文脈で人気があるようだった。言語化と生産性、とくに関係がないようにも思えるが、どうなのだろう。

言語はそれ自体が他者であり、言語化とは認識のために自分の観念を言語に変換する作業だと思うけど、例えば上司という他者のために言語化を身につけて気に入られるならばそれは「気に入られ化」であって言語化ではないのではないだろうか。生産性というのはもともと使う側の理屈だが、なんのために言語化を通して観念をチェックするかといえば、使われないためだ。自分で自分の思考を認識可能な形に置き換えて、それを武器として主体性を守るため。

自分でビジネスをやる上で言語化力を高めるのはいいけど、誰かのためにやるのは止めたほうが良さそうだと思う。

ところで最近、心理に関するコラムで読んだけど「内省」にも得意不得意というものがあるらしく、内省の苦手な人は、自分を責めてくる人を仮の聴き手に設定してしまうらしい。私は内省ばかりしている人間だけど、そんなことはしていない(とても辛そうだと思う)。頭の中に余計な他人を入れるとノイズが増えるので、ものを創作するときなんか特に、いかに余計な他人を追い出すかが大事だったりしますよね。

昔のブログにも書いたことがあるけれど、感情は、感情の輪郭をすこんとそのまま言葉で抽出できた時に、自覚されるのだと思う。感情の認識の枠組みは言葉だと思う。だから、ずれた言葉として取り出されてしまうと、自分の感情がわからなくなる。生きていくためにたったひとつ必要なことは、自分で自分の感じていることや考えていることを、正確に把握する能力だと思う。逆に言うとその力が奪われると生きていけなくなると思う。生きにくいと感じる時、奪われているのはその力だったりするので気をつけて。

もうひとつ、「言語化」のほかに気になる言葉に「論破」があって、でもどうやら議論を攻撃的に破綻させることを間違って論破と呼んでいるみたいだった。論点ずらしをして相手を決まり悪くしたら勝ちというゲーム。そういう雑なゲームはつまらない。

論理は中身がなくても論理的整合性を見れば構築することはできるけど、最も大事なのは論理に先立つ直観なので、そこが「相手に恥をかかせたい」とかのつまらないことだとその時の言葉もつまらなくなってしまう。対話をするときもお互い新しい認識へ向けてはしごを渡していくような、楽しい使い方がしたい。

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今月、来月は新しく発表できるものもなさそうで、冬眠前の動物のように準備をしています。単行本と今やっているお仕事と、次回作について。お知らせできる時が来たらお知らせします(といっても次回作については「お知らせできる時」も自分で決めなければいけないという…!締め切りってありがたいものだったな!)先ほど大雨が降って、今は部屋が少しひんやりしている。一雨ごとに寒くなります。


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