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風の記憶、時の雫

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note をはじめてみようと思う。 秋晴れの空を眺めていたら、風がやってきて、 そのときにふと思ったわけです。
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2019年5月の記事一覧

たおやか

最近あまり聞かれなくなった言葉の一つに 「たおやか」という言葉がある。 漢字で書けば「嫋やか」。漢字からは なよなよした弱々しいイメージを描きがちだが、 元々は「風がそよそよとふくようす」を表している。 「たお」は「撓む」と語源が同じらしい。 弓のように撓むの「撓む」だ。 「たおやか」が意味するところは、 姿形、物腰などがやわらかく、しとやかで上品、 優美なさまをいう。 それは所作だけでなく、性質にも及ぶ。 たおやかな女性というのは男性の憧れとも 理想とも言われるが、こ

「場」を共有したいと思うとき

人の悪いところを見つけるのが 得意な人の近くにいるのは ひどく居心地が悪い。それは 身体が拒否反応を示しているに等しい。 なぜか。 おそらくはその人のそばでは幸福感を 感じないからだろう。 幸せというものは場を共有するものだし、 その時間がかけがえのないものだという 自覚を生じるものだと思うから。 僕はそういう場を志向したいし、 つくっていきたいと思う。

走れ!

ぼくは自力では そんなに速く走れない だからぼくは 電車に乗って走る ぼくは持久力がないから そんなに長く走れない だからぼくは クルマに乗って走る 一刻も早く 答えがある町に行きたいから 一刻も早く 答え合わせがしたいから でもそれでいいんだろうか? ままよ 今はただ走れ 自力不足でも 他力を借りてでも ただただ走れ!

平和崩壊

平和が崩れるとしたら 外から壊されるのではない 内から腐り 朽ちて 崩れるのだろう 守るべきものとして 護らないから 内から崩れていくのだ 他人のせいにしてはならない 護れない無能さを 責めよ 嘆けよ 自覚せよ 護るべき人が護らない それが平和を崩していく 愚かな人は 外に理由をつくろうとする 内は完全だと高を括る それが崩壊の綻びだと 気づかない 平和が崩れるとしたら そこからだ

皐月の風

瀬戸内の小島を縫うように 皐月の風がやってくる 海はおだやかに気を休め 見ている私を透かして心に届く 波の音は静かに 遠い記憶の海岸線をなぞるように 思い出の断片を打ち寄せては そこに置き去りにする 断片をつなぐのは私 置き去りにされた断片は 時を超えて 再び大切なものとして蘇る 長い時間が流れても 一度記憶の箱にしまわれても 蘇る時はどこかでやってくる 打ち寄せられた記憶の欠片のように すくい取れるか見逃すか 生き急ぐ日常の中で試される 原風景に吹く風は いつもやさ

ツバメの巣作り

今、家の車庫にツバメが巣作りをしている。 以前は玄関の軒下に巣を作っていたが、 玄関先が汚れるので追いやったら 車庫に場を移したらしい。 一度追い払った場所には二度とツバメは 巣を作らないらしい。 ツバメは幸せを運ぶとも、 巣を作る家は縁起がいいとも言われてきた。 また、農村部では益鳥として歓迎もされた。 それはツバメが穀物を食べず害虫を食べる ことからそう言われたらしい。 特に昔はツバメを殺したり、巣を壊したり することは御法度的にいけない とされた慣習もあったそうだ。

努力は形になる

努力は、毎日の水やり。 努力は、毎日の日差し。 努力は、毎日の挨拶。 努力は、毎日の笑顔。 努力は、じんわりと沁みて ここぞというときに花を咲かせる。

話の比重について

どうして、悪い話の方が 記憶に残りやすいんだろうか。 おそらくは悪い話の方が重いからだ。 だからズンと心の中に沈む。 楽しい話はそれに比べて軽い。 楽しいことを考えたりしているときは 心が軽くなるのはそのせいだ。 その比重は、 悪い話1に対して楽しい話は2くらい。 だから悪い話1と楽しい話2で釣り合う。 楽しい話が3にすると楽しいままの印象が残る。 そんなの中身によるんじゃないの? と思う人もいるだろうけど、 中身までいちいち量らないものだ。 重い話を心の中に貯め過ぎ

焦らずに

焦るとき それは結果が早くほしいとき それは何かを独り占めしたいとき それは誰かに先を行かれると思うとき それは欲しいものがなくなると思うとき それは誰よりも早く答えを見つけたいとき それは皆から置いてきぼりになると思うとき 考えてみれば どれも独りよがり 本当に幸せを得るには程遠い 幸せは一人でも感じることはできるけど 幸せは一人ではなし得ないものだから 焦らない 焦らない 焦ると本当に大切なものを忘れてしまう だから 焦らない 焦らない

稲穂と麦穂

初夏の空の下では麦秋を迎えようとしている。 穀物の多くは秋に実りの季節を迎えるが、 麦だけは初夏が実りの時だ。 梅雨に入る前に刈り入れを終える。 だから「麦秋」といえば初夏を指す。季語では夏。 稲と麦は作物として成長しているときは 姿形がとてもよく似ている。でも 実りのときを迎えると決定的な違いに気づく。 同じような黄金の穂波を持つのだけれど、 その違いを知っているだろうか? 稲穂は頭を垂れるけど、麦穂は天を向く。 意外と知らない人が多いのではないかな。 「実るほど 頭

麦の秋近し

薫風が野山や田畑に吹く頃、 麦畑は金色の穂波にゆれる。 ついこの間まで青々としていた麦穂が いつの間にか金色に染まっている。 麦の刈入れが間近だと教えてくれている。 穀物はほとんどが秋に実りを迎えるが、 麦だけは初夏が刈り入れ時になる。 「秋」には穀物が実る、収穫の意味を 持っているが、麦は収穫が初夏なので 「麦の秋」といって初夏の収穫をいう。 万緑の季節で麦畑だけは黄金色に染まる。 麦は梅雨入りの前に収穫をする。 実りを迎えた麦は梅雨の長雨に触れると 発芽をしてしまうの

翠雨(すいう)

夕方から降り出した雨は、 乾燥しきった空気と土と緑には歓迎の雨だ。 そのお陰か今夜は肌寒い。 乾いた空気はしっとり水分を含んで ひんやりとさえしている。 昨日とは5度くらいは気温が低い。 新緑の季節、青葉に降る雨を「翠雨」という。 ここのところ夏日が続き、日差しも強く 田植え前の田園は乾いていた。 雨予報だった今朝は、 ここ数日の霞んでいた山や夏野を洗って 気持のいいくらい立体感が迫ってきた。 見慣れた風景が生き返る。 誰でもいいようのない辛い気持ちを ひとり抱えるこ

地球の民

夜空を見てよく思うことがある 銀河の中心部をこんなに見事に 観ることができる環境にいる人と 天の川さえ薄っすらと見えないような ところに住んでいる人がいる このふたりを比べると 思想的な意味も含めて人間形成上 決定的に違ってくる要因になるのではないか もうすでにそうなっているかもしれない 僕らは銀河の中心部を観ることのできる 環境を守ることができるはずなのに 自ら見えなくしている社会をつくって きてはいないだろうか 人間は、国家の民ではなく 地球の民であるべきなのだ

「真似る」と「パクる」

「真似る」と「パクる」は似ている ようだけど本質は違います。 「真似る」は、お手本にする、追随する、 模倣するというように対象となるものを リスペクトする気持ちが宿っています。 だから「真似ぶ」が「学ぶ」になるのでしょう。 模倣は創造を生む。というわけです。 創造は新たな価値を生むことができます。 一方、「パクる」はモノを盗むということが 語源で、そこにリスペクトはありません。 ただ、安易に自分の利益とすべく盗むわけで、 学びにも創造にもつながりません。 「パクる」こ