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風の記憶、時の雫

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note をはじめてみようと思う。 秋晴れの空を眺めていたら、風がやってきて、 そのときにふと思ったわけです。
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2018年10月の記事一覧

コスモスと釣り人

水面をすべってきた風は ひとりの釣り人に尋ねた 「何が釣れるんだい?」 「何も釣れないねー」 釣り人はポツリとつぶやいた 山を越えてやってきた風は もうひとりの釣り人に問うた 「何か釣れるかい?」 「さぁ、どうかな」 釣り人は無表情に言った 風はふたりの横をするりと抜けて 水面に続く畦に駆け上った 風に揺れるコスモスは 傾きかけた陽のなかで はにかみながら僕を見ていた しがない秋の情景である

定義

もやのように 生まれては消える 思いのなかで 言葉はいつも 宙ぶらりん 行き場がなくて がらんどうの器の中を いったりきたり 置き場がなくて がらんどうの器が 落ち着かない 頭の上で広がる空は まだ余白だらけで ぼくの言葉も 定まらない がらんどうの器を 誰もが持っている そこに入るものは 宙ぶらりんの言葉に 重石をつけた定義 器の中が次第に 定義で埋まっていく がらんどうの器が 重石で落ち着いていく がらんどうの器は どんなに定義が増えても 窮屈にならない どんな

ばらいろの みらいなんか いらない

 ぼくらは どこでまちがえたのだろう ぼくらは  なにを ゆめみて なにを つくって なにを のこしてきたのだろう きがつけば いきつくところ  なにもかもが がけっぷち きゅうくつな かごのなかで  いきぐるしさに がまんして じゆうに うたうことも さけぶことも えらぶことも たびすることさえ  できやしない  ぼくらは どこでまちがえたのだろう ぼくらは だれに ゆめをたくし だれを えらんで だれと はなしあってきたのだろう きがつけば いきつくみらいは

全然現実的ではないけれど

全然現実的ではないけれど 何も怖れない恋をしてみたいと 若過ぎるというだけで許されること 全然現実的ではないけれど 世界中の大統領や首相が みんなそろって第九を合唱すること 全然現実的ではないけれど 核弾頭をチョコレートにすりかえて 片っ端からボタンを押しまくること 全然現実的ではないけれど 選挙の投票用紙は宝くじにして 投票率を上げること 全然現実的ではないけれど 世界中で捨てられている食べ物を 食料が足らない国へ届けること 全然現実的ではないけれど さびしいとき

しあわせ

ぼくはしあわせです でも もっとしあわせになりたい でもでも ぼくひとりが しあわせだと いみがありません おかあさんも おとうさんも しあわせだとかんじてほしい ともだちも あのこも しあわせだとおもってほしい だって ぼくのしあわせでもあるから ぼくのしあわせは ぼくひとりではできない ぼくひとりだけのものじゃない みんなのしあわせでもあるから もっとぼくは しあわせになりたい そのために ぼくは もっと べんきょうする もっともっと ほんをよんだり もっともっとも

真っ白な一行

何も書かれていない 真っ白な一行の詩を書いた 何も書かれていないので だれも読むことはできない でもそこには確かに存在する 真っ白な一行の詩がある その一行は何も語らない その一行は何も問いかけもしない 時が熟するのを待つのか 時が朽ちるのを愁うのか 誰が見ることができるのか 誰も見ることができぬのか 時間は音を発てないままに 一行の詩を載せて運んでいく 時間は存在を運ぶ舟だ 見果てぬ航路に向かう舟だ いつか時間が積荷を 降ろそうとするときがくる 存在が遺し

爽籟の好日

秋の高気圧がもたらす乾いた風は、 湿気を含まず爽やかだ。 肌にまとわりつく感じがしないので 心地よく風をうけられる。 だからか、木々の枝を通り抜ける音も 聞き心地のよい音に聞こえるのかもしれない。 古人はこのような秋風の音を「爽籟(そうらい)」 といった。「籟」は3穴の笛のことらしい。 この笛の音を秋風の響く音に例えたらしい。 風の音はよく笛の音のように聞こえることが あるけれど、まさにそれを言葉に表したという ことだろう。古人の感性に惚れてしまう。 聞き心地のよい音悪

空いた隙間

空を眺めていても ぽっかり空いた隙間は埋まらない  秋を迎えても  さわやかな風をとらえても  染まる彩りを待ち望んでいても ぽっかり空いた隙間は埋まらない どこかに隙間を埋める ピースが落ちている だけど探す術が見つからない 胸を締めつける言葉が 空いた隙間を広げようと 身を切っている 空いた隙間が痛みを増して そこに言葉がなだれ込む  手を差し伸べても  なだめの言葉に頬染めても  あたたかい抱擁を望んでも ぽっかり空いた隙間から 入り込む言葉に凍える 静

紅葉雨(もみじあめ)

今日10月23日は二十四節気の「霜降(そうこう)」。 朝晩の冷え込みが感じられ、文字通り、 霜が降り始める頃という意味だ。 ところが朝の冷え込みはあったけれど、雨である。 一日中どんより空の曇りと雨が代わる代わる やってくる忙しい一日だ。 この雨は「紅葉雨」とでも名付けようか。 季節は晩秋に移りつ、紅葉が広がりを見せている。 紅葉を見るに出かけるには爽やかな秋日和がいい。 と普通は思うのだけれど、実は雨の日こそ 紅葉狩りにはもってこいなのだ。 晴れて乾いた空気の中より、雨

みらいをむく

あなたの手を伸ばせば、手は前にしか伸びない。 あなたの手は未来をつかむためについている。 あなたの足を踏み出せば、足は前にしか進まない。 あなたのつま先は前を向いて歩くためについている。 人間は前に進むようにつくられている。 後ろに進むには危険が伴うようにできている。 過去に向かうのはおよそ人間のやることではない。 過去に向かうのは進化ではなく退化だから。 どんな困難も、どんな苦難も、どんな障壁も、 未来に進むなかで解決していくものだ。 あなたは常に前を向いて立って

栗名月

今日10月21日は旧暦9月13日。十三夜だ。 「十三夜」は十五夜の次の十三夜に現れる月で 「後の月(のちの月)」と呼ばれ、十五夜の次に 美しい名月と言われている。 十三夜は栗や枝豆の収穫祝いを兼ねることから 「栗名月」や「豆名月」といも言われ、 月見にも栗や枝豆を供える習わしも残っている。 むいた栗はまさしく名月を思わせる色と形ですね。 この時期、栗を使ったスィーツが多く出回るので そちらが気になる方も多いかと。 和菓子にしても洋菓子にしても栗は秋の味覚を 存分に発揮して

なんの音?

その日、すぐには帰りたくなくて 時間つぶしにちいさな森の中にある公園へ ふらっと立ち寄ったときのはなしです。 ぱらっ…ぱらっ… 日は傾いていますが空は晴れています。 ぱらっ…かさっ…ぱらっ… すこし大きな雨粒が降ってきたような音がします。 ぱらっ…かさっ…ぱらぱらっ…かささっ… 聞きおぼえのある、そうでもないような音が ぼくのまわりで、ないしょ話のように聞こえてきます。 雨は降っていません。 公園のまわりには大きな木がたくさんあって まるでドームのように枝を伸ばし

素秋

空は高く、どこまでも澄みわたり、 風も爽やかさを運んでくる季節になった。 まるで、セカオワの「RPG」の出だしの歌詞の ようである。 この季節を「素秋」という。 「素」とは「白」を意味するので「白秋」ともいう。 季節に色をあてがうのは古代中国の五行思想に よるもので、秋に白が当てられた。 五行思想とは、万物すべてのものが 「木・火・土・金・水」の5つの元素から成る というものだ。 覚えやすくするために、自分の周りに円を描き、 中心の自分の位置に「土」を置く。 そして北の方

復興みかん

みかんを買いに行った。 売り場には二つのみかん群。 「曽保みかん」と「復興みかん」。 「曽保みかん」は地元香川県のみかん。 「復興みかん」は愛媛県のみかん。 今日は迷わず「復興みかん」を買った。 今夏の西日本豪雨によって 愛媛県のみかん産地の宇和島一帯は 大きな被害に見舞われた。 いまだに復旧・復興の途上である。 それでも生育状態は悪いながらも みかんは実りの秋を迎え、出荷の時期にある。 確かに見比べれば、外見は見劣りし、 サイズも小ぶりだし、傷が付いている。 それでも食