僕はただずっと全力で、それだけが言いたい。

その日はとても暖かくて穏やかで、まさに春!って感じの素晴らしい日だった。心の底までまぁるくなるようだ。僕は年下のネット友達が卒業するのでお祝いしたくて、数日前に描いた絵をアップしようとしていた。そん時は無職だった。リビングでかたかたパソコンを叩いていた僕の左手を、姉がちょんちょんとつついた。
「なぁに?」
「これ」
当時はまだガラケーが多かった。姉が見せてきたピンク色のケータイには、どこかのブログ運営サイトのポータル画面みたいなものが表示されていて、『新着つぶやき』みたいなところに「地震だー!」「今揺れたー!」って発言がいっぱい表示されていた。

あらまぁ。また地震なの。
僕はそう言った。そしてまたパソコンに戻った。姉もそれ以上は何も言わず、自室に戻った。少しして何かの作業を終えた母が何となくテレビをつけた。
「え?」
派手ではないけど硬い声だった。どうしたんだろうと思いながら母の背中とテレビに視線をやった。

何が起きているのかまったく理解できなかった。

どこにチャンネルを回しても、まったく理解できなかった。真っ黒な塊や燃え盛る炎やアナウンサーの緊迫した悲痛な口調を見つめていた。どうやらこれは地震らしい、津波らしい、現実らしい。そう気付いても上手く受け止めきれず、僕は椅子の上で固まっていた。
固定したチャンネルは宮城県の名取川を遡るヘリコプターからの映像をメインに映していた。もうすぐ高速道路とぶつかるくらいまで遡って来ていた。(後になって、その先にネットで知り合った友人が住んでいると知った。彼女とは5日間連絡が取れなかった。午前中訪れた場所まで水が来た、と言っていた。)
流れていく黒い粘性の塊はマグマみたいだった。あまりにも黒の塊が大きすぎて遠近感が分からなくって、「あの点が車か」と認識した瞬間吐きそうになった。あまりに怖すぎて。

誰も死んでないよね。みんな避難してるよね。大丈夫だよね。

目の前で点が黒に飲み込まれていくさまを眺めながら、僕はそんなことを考えていた。そうであって欲しくて、それ以外の可能性のことを全部頭から放り出していた。
大丈夫だよね、誰も死なないよね、大丈夫だよね。って。大丈夫なわけあるか馬鹿野郎と後になって思うのだけど、その時はそれ以外を考えることができなかった。もっと正確に言えば、それを考えることしか出来なかった。

「あんた、お友達は大丈夫かと?」

母の震える声にようやくはっとした。その時にはもう日本のほとんど全部に警報が出ていると分かっていたし、かなり広範囲にわたって混乱していることも伝わって来ていた。北海道にも岩手にも宮城にも福島にも千葉にも埼玉にも東京にも神奈川にも静岡にも愛知にも友人がいた。その多くがネットで知り合った友人だ。だからこそ繋がりは一対一で、ほとんど本人からしか情報が入らない。僕はテレビに耳を傾けながら、目の前のパソコンとケータイで何通もメールを送った。大丈夫だよね。大丈夫だよね。そう思いながら。

たぶんそれは祈りだったんだと、今なら思う。大丈夫でいてください、という僕の我が儘。
返って来たメールに安堵し、返って来ないメールに震え、僕は3月11日を終えた。


と言いたいけれど、終われなかった。
眠れなかった。怖くて怖くて、ずっと怖くて、布団に入っていても眠れない。目を閉じても恐怖が先に立つ。眠れない。ラジオを聞きながら感情をこねまわして、明け方まで何かと闘っていた。何と闘っていたのか、今でもよく分からない。でも大きな『何か』だった。
この怖さはずっと、長いこと続いた。今でも『東日本大震災』と聞くと僕は怖くなる。この時抱えていた怖さが僕の中にまだ残っていることを思い知る。

この頃怖さに寄り添ってくれたのは、ラジオと被災した友人たちだった。
もともとラジオっ子だった僕だけど、この時にもっとラジオが好きになった。その辺のことは当時書いていた日記に詳しい。
友人たちにもずいぶんお世話になった。幸いなことに、僕の友達はみんな無事だった。それでも友人の友人は亡くなっていたり、怪我をしていたりした。友人自身も避難所にいた時期があったり、仕事が長いこと休みになってしまったり、余震や原発事故で大変だったりしていた。その中で僕と話すことを安らぎと思ってくれる人たちがいて、悲しいことも嬉しいことも、たくさん話してくれた。きっと全部ではなかったと思う。それでもたくさん、話してくれた。その辺りのことも先述の日記に書き残している。


僕には、友人を支えることは出来なかった。支えられるだけだった。彼らが今日も生きていて、言葉を交わしている。その事実にようやく安心して、僕はやっと眠れた。そんな毎日だった。毎晩お話に付き合ってくれる友達にどれだけ救われたか知れない。何もかも変わってしまったのは彼らの方なのに、僕のことを世界の中に置き続けて、大事にし続けてくれた。それがどれほど僕を支えてくれたか、今でも支えられているか、ちょっと言葉では言えそうもない。

そんなことを言うと「震災で気付いた絆が~」って話になりそうだけど、僕はその風潮が嫌いだ。絆って言葉も今では嫌いだ。不幸を無理やり幸福と思わせるようなやり口には腹が立つ。蓋をして次に行きましょうとでも言い出しそうで、冗談じゃないと心底思う。
蓋なんて出来るものか。次になんて行けるものか。どうだ、こんなに書かずにはおれないほど、僕の中ですら3月11日は大きいのだ。こうして吐き出さないと溜まってしまうのだ。
僕の3月11日は、続いているのだ。

読んだ方は思っているだろう。何をお前、貴様は全部傍観者じゃないかと。そんなお前の3月11日が続いているなど、片腹痛いと。
でも続いているのだ。僕ですら、3月11日をまだ終われないのだ。誰も亡くしていない、何も失っていない、ひとつも傷ついていない僕ですら。

5年が経つ。被災地はまだ被災地と呼ばれている。そのことを、僕はもう少し丁寧に考えたい。どこまでが外部のレッテルなのか、どこまでが現地の悲痛な叫びなのか。それが分からないままの僕だと、何かをとんでもなく間違えそうな気がするのだ。


そしてどっちにしろ、あの頃も今も、僕が言いたいのはたぶんひとつだけだ。

会えて嬉しい。君が好きです。生きていてくれて、ありがとう。

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