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生存率5%以下の大病を経験した話⑧

人工透析

一般病棟に移っての治療は、毎日午前・午後のリハビリと、二日に一回の人工透析です。ICU-AWという状態のようで、筋肉がドンドンたんぱく質分解され、体外に排出されてしまいます。その量が多すぎて、腎臓がびっくりしてしまって機能停止しています。なので、その能力を補助してあげるように透析をするのだと説明してもらいました。

 これから一生透析をすることになるのでしょうか?

まずは、一般病棟に移って透析用のカテーテルを装着しなければなりません。バスキャスという槍のような50cmほどあったでしょうか、なんとも恐ろしい形のそれを胸から刺さないといけません。顔の前に処置用の青い布をかけられ、息苦しい状態で胸にそれを刺されます。

しかも、担当の先生ではなく研修医の方が処置することに。

正直、慣れた方にやってもらいたかったです。

局所麻酔なので、会話がそのまま聞こえます。

指導医「準備はだいじょうぶか?この処置は器具の配置が重要だ」

研修医「わかりました私にできるでしょうか?」

指導医「これは数をこなさないとうまくならない、やってみなさい」

もうすでに私は過呼吸状態です。心の中で叫んでいました。

「上手な人でおねがいします!」

指導医「血管がこの位置にあるから、マークして印をつけたら血管に沿わせるように、抵抗を感じながら」

と説明しています。私の首から心臓付近の血管に向けてそれを刺していきます。時おり

「あ!間違えた」

などと聞こえてきます。この時の怖さは忘れません。

誰もが最初からうまくできるわけはないと思いますが、自分の時じゃなきゃいいのにと心底思いました。

友達

自宅から20分ほどにある病院ですから、それなりに知り合いはいると思いましたが、本当に多くの知人が勤めていました。

15年ほど前に年に数十回スキーに行っていた、栗田さんは臨床工学技士として私のICUの透析を担当してくれました。透析センターでは近所の片山さんが担当してくださいましたし、病棟に近所の黒田さんも働いていました。

偶然にもリハビリの担当は、消防団と自転車仲間の坂先生でした。

本当に多くの知人が、病院で働いていました。これは本当に心強く感じました。

病気をして、友達に連絡するかは非常に悩みました。会いたい気持ちもありましたが、心配かける心苦しさもあり、仲のいい4人にだけ知らせることとしました。

一人目は、これまた入院先の病院で看護師として働いている、牧村です。 彼は勤務前と勤務後病室に来てくれ、ご飯が食べれない私を気遣い、わさびふりかけを持ってきてくれました。(ふりかけが来てから少しずつ食べれるようになりましたが、それまでは一口が限界でした。)病人としての悩みも専門家からの立場で教えてくれたので本当に助かりました。

二人目は憲俊です。彼は心配性でオロオロしていましたが、私の好きなキャラクターグッズを探してきてくれたり、とにかく明るくしようといろいろ奔走してくれました。通勤で2時間はかかるだろうにそれでも時間を見つけて遊びに来てくれました。

三人目は雲ちゃんです。名古屋からわざわざ好きな本を届けてくれたり、世の中の動向をいろいろ調べてくれました。仕事を続けられるようにいろいろ配慮してくれました。

四人目はピデです。バックパッカーを一緒にした仲ですが、食べれないことを知ると、仕事終わりに肉まんを買ってきてくれて、病室でいつも一緒に食べてくれました。

彼ら4人はただ私に寄り添ってくれました。

病気になるとしなくてはならないこと、出来ないこと、不安なこと、あせる気持ち、いろいろな思いに答えは出せないと思います。けれど世の中からは答えを求められます。そんな気持ちに彼らはただそっと寄り添ってくれました。おかげで少しずつですが、自分の病気を認め、吞み込めるようになりました。これでいいのだと。これが私なのだと思えました。

一般病棟に変わった直後の映像です。食事も一口しか食べれず、精神的にも不安定な時です。自分で見てもうわー!って思うので自己責任で見てください。

⑨に続く

生存率5%以下の大病を経験した話①
生存率5%以下の大病を経験した話②
生存率5%以下の大病を経験した話③
生存率5%以下の大病を経験した話④
生存率5%以下の大病を経験した話⑤
生存率5%以下の大病を経験した話⑥
生存率5%以下の大病を経験した話⑦
生存率5%以下の大病を経験した話⑨
生存率5%以下の大病を経験した話⑩

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