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何かのせいにはしたくないよね。できれば。

なにかのせいにしてしまうときは
少なからずそれが起きた理由や背景を考えます。

なにかのせい、といってもそれは必ずしもネガティブなものだけではなく、なにかのせいにしたときがよい方もあります。

そんな前提で、
でもできることなら言い訳せずに
物事や自分と向き合いたいとは思いますが、なかなかうまくいきません。
それは、先に述べた何か起きたときにはその理由や背景を考えてしまいそこには自分だけでは完結しない、他者の存在があることが多いからです。

私はアドラーの目的論、未来型の考え方に共感しつつもフロイトの原因論を捨てきれずにおりました。
それは、何度もこのnoteで述べている、

理解してほしい

という気持ちが止められないからです。
私がこうなったのはこれがあったからだ、とか
こんな出来事で価値観が変わったのだ、とか
言葉にすると超かっこ悪いけど
こういう考え方になってしまうのは、端的に言えば

『○○だから、仕方ない』

ということを理解してほしいという態度になります。
カッコ悪いですね。
でも、大小問わず私はこの考え方に振り回され、理解されなければ満たされないような気持ちになっていたことは確かであります。

前にも言いましたが
私はあなたの見た目を気にしないが
自分の見た目は気になる
という考え方と同じで

あなたになにがあったかはどうでもいいけど
いま起きてることは自分も巻き込まれてるからどうにかしたい、してほしい解決してくれ
と人は思うわけです。
つまり誰もが興味があるのは自分事だってことっすね。

て、ことはですよ
いくら私の原因を探って理解されたがったって他人にはわりかしそれはどうでもいいことだし
同時に説明すればするほど

『だから私は悪くない』

という考え方に拍車がかかるような気がするのです。

いやですね。
とても、ダサいです。
こんな人、少しも魅力的ではありません。

でも私、してましたね。
こういう考え方。

こういった原因論に振り回されないために
理解されたいやりきれない気持ちを
どっかに投げ捨てて
目的論にシフトしてみると、
そこに介在するのは己のみとなりますから
なにかのせいにせずにすみます。

例えば
引きこもり。
原因論でみると
過去にいじめられたから対人恐怖症である。
だからこの状態になってる、仕方ない。
心をケアしながらならしていこう。

目的論でみると
外に出たいの?出たくないの?
『出たいけど…』
じゃ買い物いこう!
『や、出たいけど怖くて出られないの』
なにが怖いの?
『人が怖いの』
じゃ人がいない時間に夜とか私偵察するからその瞬間に5分だけ出てみようよ

みたいなことになりますね。
何で怖いか、より、怖さを回避して外に出るという目的を果たすための行動を模索するということです。

これは極端な乱暴な例えですから
必ずしもこんな風にうまくはいかないでしょう
感情が、からんできます。

でも、私はなにかのせいにする、カッコ悪い自分は嫌いです。
なので、カッコ悪くならない行動を目指したいと思うのです。

理解をもとめると生まれる何かのせい
どんなに不遇な状況でもきっとそれは未来の目的に転換できるはず、
と私は信じて歩きたいなと思います。

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