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性別について「どちらでもいい」は必ずしも正義じゃない

まず前提として
私自身は
性別というものに対して
「カテゴライズされたくない」
という意思を持っています。(LGBTという言葉ももはやあまり使いたくはありません)
言葉にすると「Xジェンダー・ノンバイナリー」ですが、それを強く主張したいとは思っていません。
そして日常においてや何気ない日々の関わりの中で女性と扱われることにも大きな嫌悪があるわけではないのでお気になさらず。
※カテゴライズされたくないという価値観に関して以下の記事が分かりやすいのでもしよければご参考までに
https://jobrainbow.jp/magazine/whatisnonbinary


先日中山咲月さんが「トランスジェンダーです」と発言した件に関してブログをあげていました。
詳しくはこちらを↓
https://lineblog.me/nakayamasatsuki/

中山さんは「ジャンル分けしたくない」というスタンスを取られている方のようです。
記事のコメントを読み、応援している方々の中山さんは中山さんだよという暖かい言葉にうんうんと深く頷くと共に、記事自体の嘘をついていることへの後悔の感情などひどく共感することが多い文章で色々と思うことがありました。

最近は性自認だけでなく性的指向もパンセクシュアル(性別によらず好きになった人が好き)と公言する人が増え、ボーダーレスな考え方が浸透しているように思います。

そんな中で、
「どちらでもいい」
という考え方が正義とされ
「線を引く、分ける」
という考え方がないがしろになれる雰囲気を感じ、少し違和感を抱きましたことがあったのです。(あくまで私が見たり聞いたりした中でのことですから主観ですが)

結論から言うと
私は線を取り除き、曖昧にすることが大事なのではなく
「どちらでもいい」とか「中間」とか「選択したくない」
とかって価値観が仲間入りして、その上でお互いに受け入れ合うということが大切だと思っています。

あまりに今まで
「女」「男」
という線が太くて強固だった歴史があるので
一度それを取り払ったり崩したりするのはとても必要なことでした。
そして線を取っ払ったことで見渡してみると
色んな線があったり、なかったり、ぼやけてたりする
ということに気が付くことができます。

ちなみに、
「私はトランスジェンダーです」
という人がいたときに
「私は気にしないよ、どっちでもいいじゃん」
という言葉を投げかけることでその人はどんな気持ちになると思いますか?

答えは
「その人によるから分からない」

です。
クイズの体をなしてなくてすみません。

でもそうなのです。
「どちらでもいい」
で、救われる人もいれば、
「どちらでもいい」
で、ちゃんと自分のアイデンティティを見てくれない
と不快に感じる人もいるのです。

私自身はカテゴライズされたくない人なので
「どちらでもいい」
に救われたし、実際自分が救われたこともあって、暫くはボーダーを作らない事が人を傷つけない事だと信じていました。
でもそうじゃない、と痛感する出来事があって、
「どちらでもいい」
と自分がとっていたスタンスは
受け入れたふりの思考停止だったのかもしれないと思い直しました。

大切なのはそれぞれの大事なことがあって
それをその人のものとして大事にすること、尊重すること

そんなわけで
「どちらでもいい」
けど
「どちらでもよくないかもしれない」
というその両方の価値観がひとりでも多くの人に届いたら…!
と思い、久しぶりにnoteを綴らせていただきました。

この後に具体的な体験を載せていこうと思いますが
恐らく長くなるので興味がある方だけ読んでいただけたら幸いです。

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その痛感した出来事に触れる前にまず
私自身の性自認や指向についてお伝えします。

さきほども触れた通り、私はカテゴライズされたくない
ノンバイナリーですが、
普段生活するジェンダーは「女性」
として扱われることを厭いません。
むしろ仕込みのときとか重いものは全然持ちたくありません。
男性にお願いしますと積極的に頼みます(笑)
ただ、こと恋愛となったときには完全に「男性」という感覚に切り替わります。
付き合っている人に「彼女」ではなく「彼氏」と紹介されたいし
自分が妊娠をすることにも抵抗があります。
でもいつか子供を持ちたいし、制度が整えば結婚もしたいと思っています。
そして女性ばかりの時や付き合ってなくても女性と出歩けば買い物などでは
私が荷物を持ったり、いわゆる男性役をかって出たりします。
「トランスジェンダー」には広義と狭義の両方で同じ言葉が使われるのでややこしいのですが
広義の意味では私もトランスジェンダーに入ると思います。
この説明はこちらに詳しく載っています。
https://jibun-rashiku.jp/column/column-1506
つまり性別違和を感じている人はみんな広義の上で「トランスジェンダー」とカテゴライズされたりするんですね。

そんなミックスな感じなので、いちいち説明するのも面倒だし
状況によって伝えていけばどう思われてもいいや、というのが私自身なんですけど
ある時、年上のトランスジェンダーの方と話している時に私が
「性別に関してはもうどっちでもいいって感じだしこだわる必要がないと思ってます」
なんてことを発言したら

「私にとっては性別は命の次に大切なものです」

とその方は言っておられて
その瞬間にハンマーで頭を殴られたような気がしました。
その方が(仮にAさんとします)、あまりに絞り出すように切実に
「命の次に大切」
と言っていたその重みに私は言葉を失いました。
同時に自分の浅はかさを恥じました。

セクシャルマイノリティの歴史は
この数年で大きく大きく動き
それ自体はとても喜ばしいことなのだけど
同時にどうしようもなくて
割り切れなくて、我慢して
なにか自分の尊厳のようなものと引き換えに生活を死守してきた人もいるのだということを忘れてはいけません。
そういう時代を生きてきた人に対して
「どちらでもいい」
「気にしなくていい」
なんて言葉はあまりにも軽率で
もしかしたらその人の持つ大切なものをとても簡単なものにしてしまうかもしれない。
そんなことを強く感じたのです。

「性別」という言葉ではなく今は
「性自認」という言葉の方が相応しいと考えていますが
それを英語にすると
「Gender Identity」
と訳されます。

そう、アイデンティティなんです。
そこにはそれぞれの形があります。
線を引く、引かないを誰かが決めつけるのではなく
その人の形を尊重できる
それが当たり前の世の中になることを願っています。


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