はや7年

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去った11月22日で、北中城にジムが移転して7年となりました。これもお客様、関係者各位の皆様のお蔭と感謝申し上げます。昨今、厳しい状況の中ではございます。月並みですが、これからも地道に頑張ってゆきます。よろしくお願い申し上げます。

さて、先だって大学生の研究資料の為のボルダリングに関するアンケートを頼まれて、店頭に設置してました。ソレ自体はなんらお安い御用なのですが、そのアンケートの内容には甚だ違和感を覚えました。普段から接している子でもないし、そういう意見や質問は、大きなお世話かただの迷惑でしかないと思いこの件については、特に何も言わずでした。

そんな事もあった、先だってのこと。SNS でも書いたのですが、養老孟司先生のブログ記事でとても心に食い込んでくる言葉があって、それは『世界は見方によって「対人の世界」と「対物の世界」に別れる』というもの。

なるほど。ただ、まあ、これも二つにスパッと別れるものではなく、自律神経の交感神経、副交感神経の様に誰しもどちらも持ち合わせて、状況に応じてバランスよく使いこなすのが、いいかと思うのですが、先生が少し指摘していたように世の中は、とても「対人」にシフトしている気がします。実際、YouTubeやら、SNS やらそうですし。

なるほど、私が、先のアンケートで感じた違和感は、その内容に関して、基本的にクライミングを「対人」を前提として、出来ているモノで「対人」を肯定する結論が透けて見えてくるからでした。

個人的にクライミングは、「対物」の極地、至高の内省的遊びと思ってます。

昨今、確かに、セッションであったり、コンペであったり、クライミングの主流も「対人」的なモノになっているかもしれませんし、ビジネス的にもその方が都合が良いと感じます。

ただ、クライミングの文化の歴史を見つめてみると、「対物」的なもの積み重ねで、その厚みが圧倒的に出来ていると思います。

私も含めて、ある程度長いキャリアを持たれている方々ならこの感じはわかるのではないかと。

「対人」な記録や、クライマー達に共感とモチベーションを感じ、個人でも誰もいない名もないボルダーを一人で黙々と登って創り上げてゆく楽しみ。根暗です😁。

ただ「対人」を全くもって否定する訳ではないです。「対人」から得られるメリットがあるからこそ、その言葉は意識されないにしても、持て囃される?風潮になっているのでしょうから。

人は一人で生きていける訳じゃないので、どんな世界でも「対人」を否定する事はできないと思います。

ただ「対人」は疲れます。

今こそもう少しクライミングのみならず、世間か「対物」にシフトしてもいいのではと思います。

件のアンケートも、もう少し「対物」な考えと、クライミングの歴史からの考察を加味していたら、より深みのあるアカデミックなモノになったのではないか?そういうアドバイスができる先輩クライマー(こっちでは、もしかして居ない?)、業界関係者がいなかったのか?残念でなりませんが、ま、どうでもいいです😁。

20数年前の昔、アメリカをクライミング放浪していた時、ジョシュアツリーの砂漠の中にあるボルダーを夕方、1人でブラリと登りに行くと、どこから来たのか知らないけど、砂まみれで薄汚れた兄ちゃんが1人でラジカセで音楽流しながら黙々と登っていました。私に気付くと、その薄汚れた顔ニヤッと白い歯を見せて、手をあげて挨拶してくれて、また、黙々と登ってました。

そんな根暗な不器用に熱い連中が増えると面白いなぁ。

ウチのジムも、移転して7年、オープンして15年の今年。色々な事がありました。そんな中でも、今年は、また、特別な年となってます。いつかまた振り返り「いや〜、あんな時もあったね。大変だったわ。」と笑って思い出される日が来る事を願います。そして、コーラルロックはコーラルロックという「岩場(対物の場)」を目指して、引き続き頑張ってゆきますので、よろしくお願い申し上げます。


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