学会参加の振り返り

一人しか知らない学会に参加してきた。知り合いのあの方は先生だし、後期の授業からお会いできたばかりだし、話しかけづらそうに思っているため、頼りになれなかった。そんな状況の中で、何人かの方とお話できて、名刺交換できて、さらにお写真までとってくれたから、良い経験になった。

小さいな学会のため、参加者もプログラムも数少なかったが、全体的には自分の関心のある話題ばかりだった。ところが、まったく頭に入ってこない研究発表もあった。その発表者は中高年の女性で、大会の一日目から銀色の着物を身にした気品のある方だった。しかし、今日の発表では、文字がびっしりと並べられたパワポで、書かれたものをそのまま早口で読み上げ、聞いている人と全く目の交流をせずに発表を終わらせた。そのような発表は自分にとって苦痛であるため、日本語のリスニングだと思って聞いていただけで、興味はあまり湧かなかった。退屈な一時間だった。それなのに、その後の質疑対応では、学会長である方が、臨床心理士や公認心理士をめぐる問題点を含めた素晴らしいコメントを聞いて、本物の研究者と研究の素人との間の差をしみじみと感じた。

もう一つ気になることがあった。それは、発表者でもなく、話したこともない初対面の人と名刺交換をすべきなのか、すべきならどうやって声をかけるのかということだ。研究発表者だったら、その発表内容について興味があれば自然と声をかけられるし、あるいは何かのきっかけ(今回の場合だとワールドカフェがあって、その場でお話しできた方とほとんど名刺交換できたが)で口を開いくことができる。それ以外なら、自分からどうやって声をかけたらいいかわからないし、きっとこれから二度と会わないし、お互いにとって役に立たない人に違いないと思って、その場から離れてしまうのがいつもの自分だ。しかし、何気なくできる人もいる。

その違いはどこからきたのか?

よく考えてみたら、人と関係を持つことに自分は負担を感じているようだ。というのは、人と一度つながりがとれたら、そのつながりを自分の中でどう処理するのがよくわからない。ほうっとくのが気が済まないし、程よく維持していく方法もわからない。声をかけてくれたことやこちらの声かけに応えてくれたことは、相手にとって何気ないことかもしれないが、自分にとってはそれだけで恩返しをしなきゃいけないことだと捉えてしまう。その考えは自己評価の低さに由来していると思うが、そういう自分に疲れる。人の優しさに恩返しをしなきゃいけないという思いは結構重いものだから。そういう重い思いを抱えるに至らないために、最初から人とつながりを持つのを避けている。それが原因で人にクールだと思われているかもしれない。

また、授業では、研究を進めるために、将来のキャリアのために、積極に学会に参加し、自分を売るために懇親会に参加することをお勧めしますと先生に言われたことがある。そういう目的を前提に人と付き合うことに違和感を覚えている。そして、懇親会の場合は、相手の研究内容をちゃんと分かっていないのにその人に接するのは相手にとって失礼なことだし、話す話題もなければきっと困ってしまうと考えている。その困っている場面を想像するだけでぞっとするから、懇親会に一度も参加したことがない。

けれども、よく考えてみたら、目的の持たない付き合いがあるのか。「人はひとりで生きていけない」というセリフはよく耳にするが、生きていくことが人付き合いの最も原始的な目的で、最も大きい目的なのか。それだったら、目的をもって人と付き合うのが許されうるか。さらに、よりよく生きるために、一度付き合ってみても合わないと思ったらさっさと別れてしまうのも許されうるか。

今の私は、自分から別れるのを、自分に都合のいい解釈をつけてその別れを受け入れているが、人から分かれられたのをまったく受け入れられていない。自分と他人を入れ替えて考えるのが自分にとって至難の業であるというような気がする。

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