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THE NEW COOL NOTER賞~小説講座 第3回「助詞や記号などの表現について」~後編

THE NEW COOL NOTERコンテストに参加いただいている皆様。
ならびにみこちゃん出版を応援いただいている皆様。

赤星先生の「小説作法(文章作法)」について、第3回「助詞や記号などの表現について」の後編をおくらせていただきます。

(前編はこちら)

顔文字や絵文字、スラング的な表現について

ネット文化の発達に伴い、いわゆる「顔文字」や「絵文字」が誕生しました。
これは、文字や特に記号をパーツに見立てて、本来は文字を描画するための箇所で擬似的に「絵」を表現しようとするものです。

みこちゃんがよく使う顔文字としては、
٩(ˊᗜˋ*)و  (゚0゚) などがありますね。

これがさらに、複数行にわたって表現しようとすると、AA(アスキーアート)というものに至ります。
これは、ワープロやインターネットブラウザなどといった、文章を扱う新たな道具から花開いた文化、という意味ではとても興味深いのですが……小説においては、かなり強いNGが働きます。

たしかに、書き手の感情などを表す上では便利なのですが――「機種依存文字」という言葉がありまして、相手がどのような環境でその文章を見ているかがわからない場合、それが思った通りに表示されていない可能性が、とても高いです。

なぜなら、いかに記号を利用して絵としたとしても、その表現の大元が「文章ソフト」となっている。
「禁則処理」もそうですが、ワープロにせよブラウザにせよ、主眼は文字を文字として読みやすく表現することであり、それは、読む人が使っているのがパソコンであるかスマホであるか、どのブラウザやソフトであるかなどによって環境が千差万別となりうる。

――その全てで、作者が自分が「見たまんま」と同じように、その顔文字やアスキーアートを表示させることは不可能です。それこそ本当に「絵」や「画像」とした方が早いくらいには。

そういう、技術的な両立の困難性により、大抵は作者が思ったように表示されず、読者側からしたら非常に記号が崩れて表示されることになります。
もはや「絵の擬似的な表現」ですらなく、意味のわからない記号の羅列になってしまう……。

というのが、顔文字を使ってはいけないという「技術面」での理由です。

もう一個理由があります。
それは、読者のテンションが狂う、とでも言いましょうか。

山登りに軽装で臨んではいけない、とよく言われます。
これは逆に言えば、山登りの衣装で普通の道を歩くと疲れる、と言い換えることもできます。

先述したように、顔文字やアスキーアートが、ネット上でのコミュニケーション文化の中から生まれたものであることを考えると、それが使われる文脈というものは、少なくとも「作者と読者の関係」とは異なります。
SNSやインターネット掲示板、個人ブログなど、筆者と読者が、時にその関係性を交互に入れ替えながらある種対等で近い立場でやり取りする、そういう文化の中で形成された表現形式です。

小説とは根本的に背景が異なっていることから、たとえば小説の地の文なんかで顔文字が使われてしまうと、読者は「作者との距離感」に混乱をきたします。
じっくりと、山登りをするつもりで着込んできたのに(小説を読み、キャラクターや物語に触れる)、ポップなストリートを歩かされる(顔文字満載の作者がやけに「なれなれしい」地の文)ようなことになってしまう。

小説は、読者への情報伝達という意味できわめて一方通行的なものです。
顔文字やアスキーアートといった、双方向的な情報交換文化の中で生まれた表現形式とは、本質的に相性が悪いと言えるでしょう。

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同じ理由で、
(笑)(苦笑)(涙)(汗)(爆)
といった、ネットスラング的な表現も使用を避けるべきです。

「!?」の箇所で述べたように、その感情、その感性、その感覚を、いかに表現するかというところに作者の力量と世界観があらわられてきます。
そしてそれが、読者にスムーズにキャラクターの心象や、物語の場面を自然に旅をさせる導きとなる。

書き手は導き手となると同時に、ある意味で「黒子(くろこ)」のように、その存在感を読者の前からは隠さねばなりません。
ですので、書き手自身は当然のこととして、登場人物の感情を表すために、顔文字やネットスラングを使用することは、避けましょう。その努力(導く努力)を放棄した、と思われてしまいます。

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3 「てにをは」の使い方

「てにをは」とは、今でいう「助詞」を表す古い呼び名です。
漢文の授業などで聞いたことがある方がいるかもしれませんが、かつて漢字の周囲に点を打ち、その位置で読み方を示していました。

それを、左下から順に”テ・ニ・ヲ・ハ”とあてていたことから「てにをは」と言います。
助詞だけでなく、助動詞、接尾語など、補助的な働きをするものの総称しており、語句と他の語句との関係を示し、また、文章の流れの中で一定の意味を表すための言葉です。

――まさに、文章それ自体をどのように読むのかを表す「標識」ですね。
ある文章(外国語であれ)を読む際に、こういう記号がある場合には、こういう風に読むというルールとして、読む者にわかりやすく表示するもの。
つまり、非常に「記号」的であることを、本講座では指摘させていただき、個別の助詞や助動詞の使い方については割愛させていただきます。

ただし、「の」の多重使用、については以下の通り紹介させていただきます。

「の」の連続について

例えば、こんな例文があるとしましょう。

三番目息子好きな食べ物名前は『ビーフストロガノフ』だ。

1つの文章の中で、助詞――つまり記号としての――「の」が4回も続いてしまっていますね。
てにをはや助詞助動詞等は、文字でありながら記号であり、つまり1つの文字で「いくつもの機能」を持つように発達してきました。

高校時代の、文法の授業を思い出された方もあるかもしれませんが、一口に「て」や「の」や「は」「が」と言っても、その使われ方には非常に多彩なバリエーションがあります。

それで、こうした「助詞の連続」が忌避されるのは、1つ1つの「の」がどの意味で使われているのか混乱してしまうから、です。
つまり、本記事で先に述べた「!!!」に近い問題が発生します。

「!」や「?」は、それ自体で読者に対して無意識レベルに強く働きかける機能を持つため、連続させると、道路標識がずらりと並んで鬱陶しく感じ、また混乱するようなものであると先に述べました。
同様に、「の」に限らず、同じ助詞を連続して並べる(結果的にそうなってしまう場合であっても)と、文章同士の意味のつながりが取れなくなってしまう。

読みにくい文章は、読者を急速に”醒め”させてしまい、物語をそれ以上先に読み進めようという意欲を失わせてしまいます。

――こういう場合に、どうするか。
それもまた、書き手としての腕の見せどころでしょう。

具体的には、次回で述べますが、いろいろな表現を組み合わせて工夫したり文章を分けたりする、ということになります。
本講座で何度も繰り返しているところですが、読むに際にして呼吸・リズムが大切である、というわけですね。

上の例文であれば、こんな感じで文章を分けることが、考えられます。

には息子が三人いる。
三番目息子には大好物があって、それは『ビーフストロガノフ』だ。

「の」の特性に関してもう少し言及すると、「の」には、その表現したい事物の性質をより詳しく限定する役目があります……簡単に言えば「の」の後に来る内容が、その文章では一番大切な情報であるということになります。

この例文で言えば、単に、
「息子の大好物はビーフストロガノフだ」
と簡潔にすることもできるわけです。

しかし、この文章の中でもしも「息子が三人いること」や、「三人の中で三男だけが違う」といったニュアンスを持たせようと無意識に欲をかくと、つまり一文で情報をなんでもかんでも詰め込もうとすると、どうしても「の」を多用しがちです。

書き手として、読者に必要な情報を与えることは大切です。
しかし、例えば長旅を導く際に、まだ夜にもなっていないうちから星の見方や懐中電灯の使い方を一気に説明されてしまうと、旅人は昼間何をすればいいか忘れてしまいかねません。

下書きレベルで、作者が考えをまとめる段階で、メモ的な意味で「の」が連続してしまうことは仕方ないかもしれません。
しかし逆に、そこに読者が読みやすくなるポイントがあると考え、文章を分けていく指針とするのがよいでしょう。

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まとめ

第3回では、第1回第2回を通して醸成してきた、読者の読みやすさについて、言葉と記号の関係をさらに深堀りしていく形で紹介させていただきました。

自分が作者として、物事や文章の内容を考える時に使う言葉。
そして読者として、情景やキャラクターの心情を読み取る時に使うのもまた、言葉。
同じように見えて、同じ「言葉」を使っているように見えて、全く別物であると思った方がよいくらいです。

なぜならば、両者には大きな隔絶があるからです。
それが「読みやすさ」です。

――作者として、自分の考えをまとめるために書いた文章が、作者たる自分自身にとって「読みやすい」のは、当たり前なのです。
だって、あなた自身が考えながら書いた文章なのですから。
極論、単語の羅列でも、書いた本人にとっては意味のある羅列として、言うなれば「標識がなくても、地図がなくてもどこへ行けばいいかわかる道」のようなものです。

そしてここに、初めて小説を書く際の落とし穴がある。
その素敵な物語やアイディアを、まず作者として、自分の考えをまとめるために書き連ねる――何度も何度も言ったことのある場所に旅をする際に、標識や地図は要りません。目にも入らないことでしょう。

それを、読者にとってどうであるか、変換していく必要があります。
でもそれは、あなたもまた読者として、誰かの文章を読む際に当たり前のように頼ってきたものでもあるのです。

あなたが、気にならないレベルで自然に標識を立て、その文章の流れと呼吸を自然に導いてくれている、作者の努力がそこにはある。

「記号」が、一般的にどのようなルールや慣習で使われているのかを知ること。
それは、読者にとって読みやすくするためには、どうすればいいのか? という、書く者として最も大切なことに、目を向けていくための訓練のようなものなのだと一奥は考えます。

故に、絶対こうしなければならない、だとか、ルールは守らねばならない、という言い方を一奥はしていません。
大切なことは、もっと別にあるのですから。

以上。
それでは、また次回。




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