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THE NEW COOL NOTER賞~小説講座 第2回「文章の禁則について」

THE NEW COOL NOTERコンテストに参加いただいている皆様。
ならびにみこちゃん出版を応援いただいている皆様。

赤星先生の「小説作法(文章作法)」について、第2回「文章の禁則」をおくらせていただきます。


1 「禁則(きんそく)」について

文章とは、誰かに何かを伝えることを、最優先としたものです。
文字そのものもまた、書いた者が、その「伝えたいこと」をわかりやすく伝えるための要素の一つ。

今でこそ、ネットが主流となり、文章をインターネットで見ることが多くなりました。
それでも、私達が日本語を使い、日本語を読む以上、紙の時代と変わらず、日本語それ自体を「わかりやすく伝える」ためのルールとして「禁則処理」というものがあります。

「処理」と言われるだけあって、これはつまり、ひとたび書かれた文章に対して、あとから<読みやすくなるように>なされる処置を本来は指す言葉です。

以下に、代表的なものについて紹介させていただきます。


2 行頭禁則文字 ~ 句読点や「!」「?」などが行頭に来ないようにする

たとえば上で一奥が書いたリード文が、次のようになっていたらいかがでしょうか。

それでも、私達が日本語を使い、日本語を読む以上、紙の時代と変わらず
日本語それ自体を「わかりやすく伝える」ためのルールとして「禁則処理」というものがあります。

2行目の行頭に句点(、)を持ってきてしまっていますね。
「句点」は、文章の切れ目を表す記号であり、読む者はどうしてもそこで一呼吸をおきます。それは読むリズムだけでなく、文章を通して受け取る、内容の意味の流れにおける一呼吸も意味します。

ですから、そうした「途切れ」が冒頭に来てしまうと、直前の文章からそのままつなげて次の文章へいこうと、視線を移してきた、その「読む勢い」が、いきなり「、」によって食い止められてしまう。

言うなれば、歩いていて曲がり角をまがった瞬間に、いきなり障害物にあたってつんのめってしまうようなものです。最悪、転びます。

次の例文を御覧ください。

道を歩いていると、軽自動車が急に突っ込んできた
考え事をしていた私は、間一髪、身を引いたが
その拍子に腰から落ちて尻もちをついてしまった

まさにこの文章の通り、次の文章へ目が行こうとするたびに、「。」やぶつ切りになった「――」に食い止められて、つんのめってしまいますね。

そうして、何度も転んだら、怪我をしなくても嫌なしんどい気持ちになってしまって、もうそれ以上その道は進まず(読むことをやめて)、家へ帰ってしまう。

そうならないようにするために、句点も読点も、行頭には置かない。
”」(受けカッコ)”などについても同様ですね。

これらをまとめて「行頭禁則文字」と言います。

当たり前にできることが、できなくなった時、人は強いストレスを感じます。この喩えで言えば、当たり前に歩く(読む)ことを妨げられると、そもそも歩いて目的地に行く(小説を読む)こと自体が、忌避すべきものとなってしまう。

内容以前に、そもそも読者が安心して文章を読ませるために、守らねばならぬ日本語の作法としての「禁則」ということです。

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3 分離禁止文字 ~ 三点リーダ(……)再び

第1回で、三点リーダと中線を「2回重ねて」単語登録した、と述べました。そして一奥はそこで「邪道」と言いました。
その意味について、改めてここで触れさせていただきます。

それが、この「分離禁止文字」というルールです。
先の「行末禁則文字」と同じ理由で、2回重ねて使うことが一般的な記号である「三点リーダ」「中線(ダッシュ)」についても、行頭または行末(行末禁則文字というものもあります)に単独でぶつ切りにして置いてはいけません。

たとえば次の例文。

弟が、まるで当たり前のことのように商品を懐の中に隠した
それを見て、私は何も言えなかった。

刹那的な時間の経過や逡巡としての「――(中線)」
あるいは、沈黙や言いよどむ葛藤としての「……(三点リーダ)」は、もちろん習慣的なものではありますが、2回以上重ねて使うことで、ある意味で絵柄のような視覚的なイメージにより、文章のリズムを作り出します。

ですので、それが行末と、次の行頭に分断されていると、読者にとっては、――や……で本来表されるはずの文章リズムが、ぶつ切りになり、行頭禁則文字と同じように「転んでしまう」というわけです。

実は、第1回で「三点リーダ」を「・・・(中黒)」、「中線」を「ー(長音)」と間違えてはいけない理由には、ここも関係してきます。

中黒(・)や長音(ー)では、それを文末で2回以上重ねた時に、分離されないように自動的に次の行頭にまとめてもってくる――という「処理」が、正常に働かない場合があるのです。

今、noteで実験をしたら、長音についてはダメでした。文末で「ー
ー」と長音を2文字重ねた場合(これはわざと改行していますが)、
ぶつ切れ現象が起きています。

実は、これを避ける意味でも一奥は第1回で「……」と「――」をそれぞれ、あらかじめ2文字重ねた状態で変換できるように、単語登録していたというわけです。(決して「……」と打つために「さんてんさんてん」と2回同じ言葉を打ち込むのが面倒くさかったわけではありません笑)

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4 改行後の字下げ

まず、総論として、紙で読む文章とネットで読む文章は違うということを述べさせていただきます。
縦書き横書きの違いもさることながら、原稿用紙の紙面の制約や、ネットであればプログラムによって行間や「禁則処理」についてほぼ自動的に調整・自由にレイアウトできてしまうという事情があります。

そのことを念頭に、次の例文を読んでみてください。

 私はその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間を憚る遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。私はその人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」といいたくなる。筆を執っても心持は同じ事である。よそよそしい頭文字などはとても使う気にならない。
 私が先生と知り合いになったのは鎌倉である。その時私はまだ若々しい書生であった。暑中休暇を利用して海水浴に行った友達からぜひ来いという端書を受け取ったので、私は多少の金を工面して、出掛ける事にした。私は金の工面に二、三日を費やした。

上は夏目漱石の「こころ」の一文ですが、日本語の文章作法として、禁則と言って差し支えないであろうルールとして「改行後の字下げ」があります。

例えば、赤星香一郎先生の未発表小説二冊を、みこちゃんは改行後の字下げ、そして空行入れを、それぞれ20万字弱、赤星先生と相談しながら進めていました。

これは特に小説においては厳格に守られていることも多い作法ですが……たとえば本記事などでは守っていません(苦笑。
そして、ネットの記事やニュース文章などでも守っていないものも多く見受けられます。

その理由として、本章冒頭で述べた紙媒体とネット媒体の違いがあるわけです。

そして、この意味で「禁則」とはあくまで読者にとって、文章を「読みやすくする」ためのものであることから、インターネットの文章においては「字下げ」をしない慣習もまたできたのではないか、と一奥分析しています。

縦書きで、紙の原稿用紙に書き込んでいた時代。
右から左へ文章を読み進めていく中で、段落はひとまとまりの「意味のつながり」を表すものです。それが、つらなって、大きな意味と大きな意味、段落同士の間にリズムができあがることで、読者に全体の内容を伝えます。

なので、そのそれぞれの「意味のつながり」の始まりを、行頭の「空白」によって示してきたものと考えます。

そう。
つまり「空白」が読みやすさ(文章同士の意味のつながり)を表すものである。

これはnoteのユーザーインターフェースにおいても意識されていることですが、文章同士の改行後の行間が、デフォルトの設定では結構広く保たれています。
思うにこれは、行頭で「字下げ」することで空白(リズム)を生み出すことに対する「別解」みたいなものなのかな、とも感じるのです。

……ということを強調しすぎると、読みやすさ至上主義となってしまい、話が逸れそうですね。
ここで一奥が言いたいのは、「字下げは不要だ!」だとか、逆に字下げを使っていない文章への擁護でもありません。

「禁則」であれ「別解」であれ、その目的とするところは、読者にスムーズに内容や物語の世界の中に入ってきてもらうことです。
その意味では、本記事は小説講座ですから、特に小説に関して言えば、改行後の字下げとは、先の「目的地に向かって歩く」という喩えからいえば、道の途中で出会う標識のようなものかもしれません。

少なくとも、どこかに向けて発表したり、参加したり、応募したりする時には、小説とは自分ではなく相手のために書くものとするならば、読みやすくするという意味での「禁則」として、改行後の字下げ、は意識しておくべきものと考えます。

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5 まとめ

作文の授業などでも、聞いたこと学んだことを思い出された方もあるかもしれません。ネットの時代である現代、noteも含めて、一般的な日本語を取り扱うプログラムであれば、こうした処理で一瞬に行われほとんど意識することもないでしょう。

本来、こうしたものはウェブブラウザなど日本語を取り扱うプログラムではすべて自動的に処理され、普段意識することなく「処理」されてしまうものなのですが、今回は説明のためにわざと改行などして表示したものもあります。

大切なのは、読みやすい文章を心がけること。
それは使っている言葉や、表現の巧拙という以前に、日々の基本的な文章作法という次元(細部と言ってもいいかもしれません)に至って、気を配らねばならないことなのかもしれません。

「つまずいて転ぶ」という喩えで述べさせていただきましたが、どれだけ内容が優れていたとしても、その内容以外の部分で、読み進めようとしても何度も立ち止まらされてしまう文章としてはならない、ということです。

そうした視点があれば、4で述べさせていただいた「別解」についても、どうすればよいかが自然にわかってくるはず……読みやすさとはその意味では「統一感」と言い換えてもよいのかもしれません。

たとえば一奥は、この文章においては一貫して「別解」により、執筆をしてきました。
しかし、たとえばnote以外で同じ文章を書くとしたら、たとえばKindle向けに本文を整理するとなったら、今度はそのインターフェースや表示のされ方の中で、より「読みやすい」あり方を試行錯誤することとなります。

”禁則”とは、その意味では、固定化した決まりきったものではなく。
また「みんながやっているから」というふわふわとした流されるようなものですらなく。

どうすれば、読みやすく内容が伝わりやすくなるのか。
そうした、文章で何かを表現する人々の、日々の名もなき工夫と葛藤がいきいきと息づく営みそのものであると気づきます。

以上です。
それでは、また次回。

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