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自由からの逃亡~コンビビアルなマネジメント⑭

 「自由」というものは不自由であり、面倒なものです。自由であるということは、すべて自分で「決める」ということだからです。どのように生き、働くか、それを自分で瞬間瞬間決めていかなければならないからです。

 これまで賃労働者は、決めることをしないように、他律的に動くように、促されてきました。そして教育機関は、そのような人材を育ててきました。少なくともわたしにはそのようにみえます。

 「決める」のには胆力がいります。その胆力がなければ、「自由」から無意識に逃亡することになります。その方が楽だからです。「自由」から逃亡すると「不安」から解放されるからです。しかしその「不安」はあくまで表面上のものであり、決して本質的なものではありません。従って、いつまでたっても本質的な不安から解放されることはないのです。

 本質的な不安を解消し、くつろいで生きていくには、「自由」を愉しむしかありません。自由から逃亡した先に、それはないのです。

 こどもは最初、みんな自由です。それが、他律的なアクションに塗れ、自由から逃亡した大人に囲まれた環境にいれば、大人と同じように自由から逃亡するようになります。こどもの頃にこの胆力を養っておくことができれば、自由は「不自由」になりません。子どもたちの自由を守るのはオトナの役割です。自由を愉しむオトナが溢れている社会、それが成熟した社会だとわたしは思います。

続く

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