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『天国と地獄』〜 限りなく他者を想像し、けれど他者にはなれないと知るための入れ替わり劇

望月 「フォロワー100万人の人気者だろうが、死んでも誰ひとり気づかないおっさんだろうが、善人だろうが悪人だろうが、どんな人でも殺されていいわけないし、誰かを殺すことも許されない。私はそういう当たり前のこと言ってるだけだけど?」

日高 「その当たり前が成り立っていない世の中だと感じているもので」

望月 「どんな事情があれ、ここを譲ったらすべてがなし崩しになる。死守すべきルールってもんが人間にはあると思わない?」 (9話より)
河原「安全に暮らす場所を奪われ、安定した職を奪われ、人としての尊厳を奪われ、最後はやりなおす時間さえ奪われた。立場の弱い人間が、いかにたやすく奪われ続けるか‥‥。この殺人はお兄ちゃんの『声』じゃないのか」

「やってることは人殺しだ。聞くに堪えない声だ。それでも! 声は声だ。おまえにその声を奪う権利はあるのか?」 (10話=最終話より)

ラスト2話、心に刺さった言葉。

もともと望月(綾瀬はるか)が追っていた容疑者、日高(高橋一生)は、生き別れの双子の兄が犯した連続殺人の罪をかぶろうとしていた。

凶悪な犯罪の根っこには、社会で「まるでいないことにされている」弱者がいる。その可視化が必要なのだというメッセージは、昨年、星野源と綾野剛の主演で人気を博した連続ドラマ「MIU404」と似ている。

「まるでいないことにされている存在」を、「MIU404」ではネットにページが存在しないときに表示されるコードをタイトルに掲げ、「天国と地獄」では「空集合」という数学の概念を使った連続殺人で表現した。

両作とも主人公は警察官だが、「天国と地獄」では、警察官と容疑者が入れ替わるという荒唐無稽かつ古典的なギミックを用いる。
「天国と地獄」というタイトルのとおり、「追う側」と「追われる側」とは容易に反転するというわけですね。

しかしそれだけではない。
入れ替わることで、追う側も追われる側も、相手への想像力と、自他の尊厳を守る大切さを得るのだ。

相手の立場に立って、初めて見えてくるものがある。

昨年のロングセラー、ブレイディみかこの「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」に出てくる英語の慣用句、put yourself in someone's shoes「誰かの靴を履いてみる」ってやつだ。イギリスでは、この【エンパシー】という概念を学校で教えるらしい。

同時に、たとえ体が入れ替わったとしても、どんなに完璧な偽装工作をしても、人は完全に他者にはなれないし、なってはいけない。最終回ではそのことも示されたと思う。

肉体という境界を超えたことで、「他者から、社会から、そして自分自身でも、自己の尊厳が保障されることの大切さ」がわかったのだ。それがなければ、人は生きる甲斐をなくし、「この世に存在しないも同然」になってしまう。

兄の罪をかぶろうとする日高の ” なりすまし ” は「兄の声の収奪に等しい」ものだと、河原(北村一輝)糾弾する。

望月は、「私に私の正義を守らせて」と懇願・説得する。日高は一見サイコパスのようだが実はありあまる情愛の持ち主で、先回りして相手を守ったりかばおうとしたりしてしまう。まるで、親が我が子を自己同一視してしまうように。でもそれじゃダメなのだ。

『天国と地獄』というタイトルは、「追う者=警察」と「追われる者=容疑者」だけでなく、「社長」と「困窮者」、「弱者を虐げる者」と「弱者に殺される者」の比喩にもなっている。

毎回、ベートーベンの「運命」が流れるオープニングテーマで、そのタイトル画面が立ち上がる。

そこにいるのにまるでいない存在「空集合」になっている人たちがいる。世の中、天国と地獄とは紙一重。誰もがその薄氷の上に立っているのだ。

だから、他者への想像力と尊重を。
望月と日高は入れ替わることで体現できたが、最終回では、河原を始めとした警察官たちや、陸、日高の父も、それぞれの立場からそのようなアプローチを見せたと思う。


もろもろ個別に~

・入れ替わった望月と日高が「男(の体)も大変ね」「いやいや、女性に比べれば」といたわり合うシーン、なにげによかった。両方経験できれば、お互いもっと優しくなれるんだろうね。

・髪を巻き、丁寧にメイクをし爪を塗る日高は、望月の女の体を「利用した」「楽しんだ」のもあるけど、「大切にした」ようにも見えた。

 4話だったかな、ドレスアップした日高(体は望月)が、望月(体は日高)「いい体してますね。腹筋割れてますよ」と言う。揶揄するような口調だったけど、望月の努力への称賛でもあった。何もしないで腹筋が割れる女なんてまずいないから。

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・でも、全力疾走したり階段を駆け上がるときは、ヒールは邪魔なんだよね。女は念入りにおしゃれしてもいいし、裸足になってもいいのだ。

・日高(体は望月)にベッドの中で細やかにされるのはうれしくても、陸(柄本佑)が好きなのは粗暴な望月なんだよね。でも、日高(高橋一生)に入れ替わってるとわかっていても、激しいキスをされれば腰が抜けてしまう。人の心と体、理性と本能の曖昧さが描かれてたと思う。

・その陸が去っていったのは、「彩子ちゃん(望月)を苦しませないため」とか「日高と幸せになってほしいから」じゃなくて、「彩子といても自分は幸せになれないから」に近いんじゃないかと思った。

だって、入れ替わる前も後も、望月は陸に感謝こそすれ、陸自身を全然大切にしていなかった。そんな望月のために献身し続けるのは虚しいよ。
ナッツは駅の向こうのスーパーで買ってね152円も安いから‥‥つまり、言外に「ナッツを買うたびに僕のこと思い出してね」という最初で最後の陸のエゴがいじらしすぎる!

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・望月と日高には性愛のムードはないと思ったな。「私はあなたであなたは私」は、自分と相手、両方の「存在」を認識し肯定するという意味だったんじゃないかと。科捜研の新田は「好きですってことじゃない?」と訳したけど。

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↑ 新田さんは「好きってことじゃなーい?」もよかったけど、ここがワタシ的に一番盛り上がったとこ。

・ただ、2度目つまり本作ラストでの再スイッチのあとは、性愛に発展する可能性はなきにしもあらずだと思う。視聴者にそういう妄想の余地を残すのがうまくて、ほんと憎いw 
Twitter見てたら、「あまりに頻繁に入れ替わるので、めんどくさくなって同居し始める望月と日高」という妄想イラストが流れてきて、オタクの妄想力の素早さに恐れ入ったw

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・本作の脚本家、森下佳子が書いた昨年5月のNHKドラマ「転・コウ・生」を踏まえると、元に戻ってチャンチャンでは終わらないはずと思っていたので、ラストまた入れ替わってしまったのも(そしてなにげにそのことに慣れてるのもw)納得いった。体が入れ替わるというのは、「想像もしなかった事態≒コロナ禍を受け入れる」という暗喩でもあるんだよね。

・河原と五十嵐のキャリアの壁を超えた絆も胸アツでしたね。青島と室井(@踊る大捜査線)ばりだったよね。てか、ある一定の年齢以上のドラマ好きにとって、青島と室井の関係性がほぼ基礎教養的に視聴者の心に根付いてるから、あんな短いシーンで表現できるんだよねw

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・「おんな城主直虎」で一人で全部の罪をかぶり、柴咲コウの槍ドンで死んだ高橋一生が今度は死なずにすんだ。救われた。それだけでオタクの心が成仏できました。(「直虎」も本作と同じ森下佳子脚本なのです)

・かわいそうな高橋一生と悪い女の綾瀬はるかを堪能。柄本佑が佑史上最高にワンコだった。ほんと何でもできる奴だー! 溝端淳平、15年くらい前とやってる役が変わってなくてむしろすごい。天海祐希の「BOSS」でもこういう感じだったよね?

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