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『往復書簡 限界から始まる』上野千鶴子・鈴木涼美 ~ ”自分の弱さを認める” という強さ

上野千鶴子と鈴木涼美、一年間のべ24通にわたる往復書簡。38歳のライター鈴木さんが「自分の弱さ」と向き合う、その強さに圧倒された。 

若いころ、AV出演もしていた鈴木さん。冒頭では、自分には男も女も実に愚かだという圧倒的な実感があり、社会は男性優位だけれど、弱い男としたたかな女は共犯関係を結んでいるものだ、と主張する。

AV出演を含め、自分は常に自己決定してきたのだから被害者を名乗る資格はないし、「搾取の構造の被害者」というレッテルは釈然としないという鈴木さんに対し、上野さんが「遠回りをするのはやめて、自分の傷に向き合いなさい」と突きつけるのが序盤の白眉であり、この本を貫く背骨になっている。

「あなたはたくさん傷ついてきたはず。痛いものは痛いとおっしゃい。人の尊厳はそこから始まります」
「自分の傷をごまかす人間が、他人の経験や感覚を尊重できるわけないのです」
「被害者を名乗ることは、弱さの証ではなく強さの証です」

元AV女優、という肩書だけでなく、東大大学院出身で、日経新聞の記者として5年ほど勤めた経験もある鈴木さんには、幾重にも複雑に絡まり合ったプライドと屈折があるはず。そんな彼女が上野さんのストレートな忠告を真正面から受け止め、その後、自分の弱さと向き合い続ける様子には胸打たれた。

いわく、下着を売っていた女子高生時代に始まり、自分の体を粗末に扱ってきた経験。
それは、男性の浅ましく醜い部分を見続ける経験でもあって、彼女にとって男性は常に侮蔑の対象だった。ゆえに、まともな恋愛も、満足できるセックスもしたことがないし、期待してもいないこと。

性犯罪や望まない関係にはっきりNOと言える若い女性たちへの羨望。
自分がとっくに放棄した男性との相互理解をあきらめていない彼女たちの姿が眩しすぎること。

立派な両親に愛されて育ちながら、ブルセラや夜職の世界に飛び込んだ根っこには、母親から逃れたい気持ちがあったのだろうという自己分析。
聡明な母に観察され、回答を求められる苦痛。母の愛は本当に無償なのか、試したかったのかもしれないと。

昔から本を読むときも、人間の美しさより愚かさに惹かれる傾向があったこと。

夜の仕事から退き、大学での研究も新聞社も辞めて、今はこれから何を書いていくのか悩んでいる。
自分は常に逃げてきたに過ぎないのではないか? 小手先のスキルを生活手段にしてきたのではないか‥‥

それらはすべて鈴木さん個人の固有の経験だが、読みながらヒリヒリする感覚が随所にあった。
私は鈴木さんと年齢も近く、辿ってきた道にも多少の重なりがある。
そうでなくても、(言葉は悪いが)ここまでケツをまくった姿に、何かしら共鳴するところがある女性は多いんじゃないだろうか。

自分の弱さを掘り進めるって、こわくて苦しいことだ。
鈴木さんがここまでできたのは、彼女自身の覚悟や知性、筆力によるもの、そして、上野さんの寄り添いがあってこそだと思う。

上野さんは、舌鋒鋭く、ごまかしを許さず、けれど鈴木さんの痛みを慮りながら手紙を返す。
上野さん自身の過去の傷や後悔もさまざまに開示されている。
この本の共同執筆を通じて、こんなにも厳しくあたたかな女性の師をもてたことは、鈴木さんの人生にとってどんなに大きな意味があるだろうとうらやましく思うくらいだった。

自分自身に引き付けてみても、思いが尽きない本だ。
私がそれなりの経験をしても男性にも世の中にも芯から失望しきっていないのは、
「善なるものを信じたい」と
「人はしょせん愚かなものだ」という
両方の感覚を矛盾なく育んでこられたからかもしれない。
いや、それとも、面倒なことや苦しいことをいろいろ避けてきたからだろうか?

そもそも、私がこの本に興味を持ったのは、最近になってふと芽生えた疑問がきっかけだった。
自分の中に実は「男性に生まれたかった」という憧れがあり、それがかなわない根源的な悲しみが、若い頃の性への関心に転じていたんじゃないだろうか? だって、自分では絶対に持つことができない男性の肉体を、その感覚を、もっとも近く感じられるのはセックスだから。。。
という疑問だ。
(※詳細はFacebookに書いたんですけど、友だち限定にしてるので、読みたい人は連絡くださいw)

その疑問に関連して本書で目に留まったのは、上野さんが書いたこの部分だ。

「女以外の何者にもなれない/なることを許されない女にとって、男を人間から引き剥がしてただの「男」にむきだしにするのは、対等な恋愛ゲームを演じるための条件だった」

ナルホドねと思わされたが、「恋愛は争闘の場」だと断じて憚らない上野さんと私の感覚とは、乖離もあるように思う。
このあたりは、もっと多角的に、そして、人の言葉に頼るのではなく
私が自分で自分をもっと掘らなければならないところなんだろう。 

このほか、上野さんから鈴木さんへの手紙の中では、ジェンダーやフェミニズムに関する多くの知見も手際よく詰め込まれており、読みがいがある。

・性愛とは、結婚とは、家族とは?
・性と愛とを結びつけるロマンチック・ラブ・イデオロギーは、女性を解放したのではなく、かえって不均衡を生んだのでは?
・女性同士を対立させて分断支配する、家父長制の狡知

・日本と世界のフェミニズム史、ジェンダーの観点から見る文化人類学。'60~'70年代の性革命の時代と比べると、今の若い人はかえって保守的なのではないか? 森喜朗発言への抵抗から生まれた「わきまえない女」は、平塚らいてふの主宰誌「青鞜」の【新しい女】の概念とそっくり。

などなど。
こういった部分をピックアップして読書会などに用いるのもいいと思う。

今後のライター稼業に悩む鈴木さんに対して、上野さんが「文体」の大切さを説く部分にも瞠目。

読みやすさや食いつきやすさのみを追求しがちな今のSNS時代、
「文体によって書けることと書けないことがある。新しい対象を見つけなさい、それは必ず新しい文体を要求するから」
という上野さんの示唆に納得したのは、この本の両著者の文章があまりに見事だからだ。深みと本質が宿る濃密な文章の連続で、骨身にこたえる。

これが上野千鶴子の凄みか、と思うとともに、上野さんと並べて読んで見劣りのない鈴木さんの言語能力には舌を巻くしかない。
鈴木さんは、これまでの単著ではもっと軽くシニカルな文体を用いてきたらしいが、一冊を通じて上野千鶴子と同じ温度感で書ききった経験は、悩める彼女をもう一段階も二段階も押し上げたのではないだろうかと思った。

本書の中で、上野さんは
「本気の恋愛は人間をすがすがしい孤独に導く」
と書き、鈴木さんは 
「まともな恋愛をしたことがない」
と書いている。

けれど、鈴木さんが己と深く向き合った文章を読んでいると、これもまたすがすがしい孤独に至った姿にほかならないような気がする。
そして、この痛々しくもすがすがしい孤独は「弱さを認めた強さ」そのもので、どこか読む人の心を疼かせるものがある。
これからも、私はこの本を何度も読み返すでしょう。

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