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『旭影の白』(掌編小説)


 わたしは梔子。
 白いドレスは闇に溢れた月華の受け皿。
 暁の闇に根を張って、霧の底に沈んだ空を仰ぐ。


 ーー辺りは一面、白く染まっていた。
 霧の白さは花のそれには遠く及ばない。彼らには常に、闇が付き纏うのだ。必然、わたしの白いドレスが白い闇の中で明らかになる。
 言葉を紡ぐための口を持たないわたしにとって、この白さだけが、わたしという存在を世に知らしめる唯一の言葉だった。

「こんばんは、梔子さん。夜だというのに、今日は君の素敵なドレスが少し霞んでいる」

 アゲハ蝶だ。
 立ち止まっていたわたしの横に、舞うようにしてアゲハ蝶が佇んでいる。彼と出会うのはいつ振りだろうか。随分と久しいことのようにも、またさっき会ったばかりのようにも思える。
 ただ確かなことは、前に彼と出会った時も、わたしはここで佇んでいたということだ。つまりわたしは、彼が来てくれない限り彼に会うことはできないということだ。

 黄色と黒の羽根に、朱が1点だけ挿しているその羽根は、わたしにとって自由と憧れの象徴だった。
 彼のように自由にこの街を駆けたい。

 その思いは最早恋慕といっても過言ではない。

(こんなに真っ白な夜の中で、どうしてわたしを見つけられたの?)

 わたしは是非ともそれを教えて欲しかった。
 彼はこういう霧の立ち込める夜に限って、わたしの前に姿を現す。暗い闇の中ならきっともっと簡単に、わたしのことを見つけられるはずなのに。

「もうすぐ僕らの命も終わりを迎えるね。そう思っていたら君に会いたくなったんだ。君のその白いドレス、それにそのどんな言葉よりも雄弁に君の存在を語る蜜のように甘い香り。
 君は僕たちにとっては憧れなんだ。ふわふわと風に飛ばされるだけの僕らにとっては」

(それじゃああなたは、わたしの香りを頼りにここへ来たの?)

「君が言葉を紡げないことが残念でならないよ。そんな風に美しく、そして艶やかに生きるというのがどういうことなのか……。
 聞きたかったけれど、きっと僕は次の夜には死んでしまう」

(わたしはちっとも幸せじゃないわ。あなたあの方がずっと羨ましい。わたしはここから動けないし、誰ともお喋りすることができないの)

 アゲハ蝶はその言葉を最後に、どこかへふわりと飛んで行ってしまった。
 もしかすると言葉の通り、風に誘われてしまったのかもしれない。真意は分からない。だってわたしはそれを尋ねることができないから。

 彼はーーわたしの愛する彼は、わたしのことを、わたしのこの白いドレスと蜜のような香りを羨ましいと言ってくれた。
 そして、次の夜にはその命を落とすとも。

 わたしは自分では気がつかなかっただけで、白いドレスともう1つの言葉を持っていた。
 彼はそれをわたしに気がつかせてくれた。
 ありがとう。言葉にはできなくても、せめてそれだけを、彼が羨ましいと言ってくれたこの身に宿る香りで伝えたい。

 気がつけば、地面にかたく縛りつけられていたはずの足が動いていた。
 細くて弱々しくて頼りない足だけれど、確かに動いていた。

 彼は風とともに何処かへ消えてしまった。
 自身のドレスさえも定かではない濃い霧の中で、彼を探すことはほとんど不可能に等しい。
 現に、わたしは彼がどちらの方向に消えたのかも、もう分からなくなってしまっていた。

 だけれど。

 ここから動くことは決して無駄なことじゃない。価値のあることだ。
 わたしが否定していたわたしという存在を認めてくれた彼のために、今わたしは動き始めなければならないんだ。

 どれだけ歩いたか。
 彼の姿は未だ見つからない。霧は晴れることはなく、穏やかでいて残酷な夜は、明ける気配を見せない。

 もういいだろうか。
 ここまで来れたなら、彼も許してくれるだろうか。
 この白い夜の中で彼を見つけるのは、わたしにはやっぱり無理だった。

 そんな思いが頭をよぎる。

 その瞬間、柔らかな風が吹いた。
 霧の向こうに見えていた藍色の空が、いつの間にか朱に変わっていた。彼の羽根に挿したあの美しい色と同じ、朱だ。
 見惚れているうちに、街は段々と白い影に満たされていく。わたしの存在を否定するかのように地を硬く閉ざしているアスファルトも、猫たちが丸々路地裏も、どこもかしこも等しく遍く、旭の白い影に染められていく。

 彼も見上げているであろう、わたしたちが目にする最後の太陽が、白く輝いていた。
 わたしのドレスと同じ美しい白色。2つの白が重なった時、俄かにわたしの身体に力が漲るのを感じた。
 そしてその力は香りとなって、今まできづいてなかった、彼の羨ましがっていた蜜のようなわたしの香りが辺りに満ち始める。

「梔子さん、梔子さん」

 どこからか、アゲハ蝶の彼がわたしを呼ぶ声が聞こえる。
 明けないように思えた夜は明けた。わたしたちは出会えるのだ。




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