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中/長編小説

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連載形式での長めの小説です。 目安として2万字からの作品を掲載しています。ハードル高いな、という方は是非「掌編/短編小説」の方からお読みください!
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短編小説『あの日々を僕は忘れてしまった』最終話

 いつの間にか居候していたコハルは、始まった時と同様にいつの間にか僕の家を訪れることが少なくなっていた。  コハルは小説に書くことこそが僕の愛なのだと、そう信じているのかもしれない。  毎日コハルがご飯を作ってくれて、洗濯をしてくれて、部屋の掃除をしてくれてーー。  そういう状態にいつしか慣れてしまった僕は、もうほとんどご飯を食べることもなければ毎日同じ服を着て、ゴミの散乱した部屋でそれでもパソコンにかじりついていた。  一文字一文字、命を削る思いで書いた原稿はそれでも

短編小説『あの日々を僕は忘れてしまった』⑽

 本を読んでいて、物語の中で誰かが友達と喧嘩をするのを見ている時は「なんでそんなこと言っちゃうのかな」とか、「なんで分からないのかな」って思う。  これはもしかしたら僕だけじゃないのかもしれないって思うんだけれど、皆んなはどうなんだろう。本を読まないクラスの皆んなにも、そういう時ってあるんだろうか。  もしあるとしたら、クラスの皆んなも今の僕みたいに「読んでる時は分かるのにな」って、やっぱり思うのかな。  1人で夕暮れのオレンジ色の街を歩きながら、僕はそんなことを考えてい

短編小説『あの日々を僕は忘れてしまった』⑼

 いつの間にか、放課後はコユキちゃんとお話をする時間になっていた。  授業が終わったら、これまでなら学校の図書室か校庭で夕方になるまでぼうっとしていたんだけれど、最近はすぐに家に帰るようになった。  コユキちゃんは本当はどこにもいない女の子だから、学校でお話をしたりはできない。  だから僕は、少しでも早く1人になってコユキちゃんとお話しするために、毎日急いで帰っていたんだ。  季節はもうすっかり夏で、夕方の匂いはいつもと変わらないけれど、それでもやっぱりなんだかジメジメ

短編小説『あの日々を僕は忘れてしまった』⑻

 お父さんはいつも、たとえ早い日だって帰ってくるのは夜の7時くらいだ。遅い日になると10時とか。  だから僕は、本当は毎日お父さんにたくさん話したいことがあったけれど、疲れているお父さんが早く眠れるように、学校での話をしないように気をつけている。  普通のおうちでは帰ったらお父さんやお母さんがいて、何でも話を聞いてくれるしご飯も一緒に食べるんだと聞いて驚いた。  それを知ってからは前よりずっと寂しくってたまらなかったけれど、最近ではそんなに寂しくなくなったんだ。

短編小説『あの日々を僕は忘れてしまった』⑺

 街を歩きながら水色の棒アイスを頬張る少女の姿が目に映った。  母親と手を繋いだ少女はアイスを食べることに必死になっているが、母親の手を掴んでいることに安心しているのだろう。  視線が棒アイスにだけ向いているというのに、思うほど足取りが不安定ではない。  水色のアイスが夏の暑さにやられて一雫、灼熱の地面へと落ちていった。  少女が悲痛な叫びをあげるが、しかし落ちてしまったアイスはもう食べられない。少女は泣きそうな表情になりながら、それでもアイスを食べ続けてい

短編小説『あの日々を僕は忘れてしまった』⑹

 4本目のビールを飲み終えたところで、コハルは再びやってきた。  昨夜と似た服装で、夏だというのに薄手ではあるものの、長袖のコートを着ている。 「こんばんは」  コハルは気がついたときには僕の隣で煙草を吸っていて、僕は正直驚きもしたけれど、どうせ鍵を閉め忘れていたのだろうと考えていた。  それに僕は、少しずつ酔ってきている。 「わたしも貰っても?」  僕のもう飲み終わりそうなビールを指し示してそう言った彼女に僕は頷いた。  彼女はプルタブを引き上げると、静かに僕のビー

短編小説『あの日々を僕は忘れてしまった』⑸

 よく耳にしていたものの、高円寺、という駅で下車するのは初めてのことだった。  こういうオシャレな人が集まりそうな場所は苦手だ。  僕はいつも通りのジーンズにシャツという格好で持ち物は文庫本が1冊、アイディア帳にボールペンが1本、それに財布だけである。  とりあえず街へ来てみたものの、僕の目的が達成される可能性は低かった。  過去の友人に会うのが目的だった。名前も知らなければ、顔も知らない友人だ。  必然、相手が僕の存在に気がついてくれなければ、僕はその人とすれ違おうが

短編小説『あの日々を僕は忘れてしまった』⑷

 コユキちゃんは名前の通り、雪の妖精みたいな女の子だった。  肩くらいまでの長さの髪とまん丸い黒目以外の全部が真っ白。着ているワンピースまで真っ白で、コユキちゃんの周りだけが夏でも冬みたいに見える。  お母さんもお父さんも動かなくなっちゃって、周りはみんな知らない景色で、そんな街の中でコユキちゃんだけが僕の知っている人だ。  走り去ろうとしたコユキちゃんになんとか追いつけた時、僕は安心して少し泣いてしまっていた。 「学校の皆んなはどうしてるのかな」 「学校の皆んなって

短編小説『あの日々を僕は忘れてしまった』⑶

 朝の5時半から始める散歩が大好きだ。  春と夏、それと秋と冬で太陽の光とか空気の匂いが違くて、その匂いをお腹いっぱいに吸い込むのが大好きだから。  お父さんと散歩をして帰るとお母さんが甘い卵焼きを作って待っていてくれる。  外の匂いも好きだったけど、卵焼きの匂いも同じくらい大好きなんだ。  でも今日は、いつもの散歩から帰って卵焼きをお箸で茶碗まで運んできたところで、何かがおかしいような気持ちがすることに気がついた。  お母さんもお父さんもいて、一緒にいつも通り、甘く

短編小説『あの日々を僕は忘れてしまった』⑵

 宿題が終わったら、という約束だったから、僕は帰るなり急いでランドセルを逆さまにして算数のプリントを用意した。  いつも宿題はお母さんのいる居間でやる。  分からないところがあったらお母さんに聞けば、お母さんは魔法のようにそれを解いてしまうのだ。  もう少ししたら僕もお母さんのように宿題ができるようになると言っていたけれど、できれば今すぐできるようにして欲しい。  そうしたらすぐに皆んなで遊ぶことができるのに。  でも今日の問題は簡単だった。  1問解くたびに

短編小説『あの日々を僕は忘れてしまった』⑴

 味噌汁の匂いがする。  ほのかに食器用洗剤の匂いと、炊き立てのお米だけが放つことが許される、あの柔らかく深い山々にも似た香りもしている。  朝ご飯の時間だ。起きて顔を洗って歯磨きをして、そうしてご飯を食べたら学校に行かなきゃいけない。  でも、まだ誰も起こしに来ないということは、もしかしてまだ寝ててもいいんじゃないだろうか……。  包丁がまな板にぶつかる音は気持ちいい。何て言えばいいなわからないんだけれど、でもなんだかすごく、優しい気持ちになれる音。   「何して

『手を伸ばす』最終話

「恋愛なんていうものは、本人にとっては重大なことでも、外から見ていると存外大したことがないものさ」  怜は、あの東京のイギリスパブで貴幸に言われた言葉を思い出していた。  千葉駅に隣接した駅ビルの、四階。駅から直通のそこにあるカフェで、彼は緊張した面持ちで人を待っていた。  確かに、貴幸の言葉には頷けるものがある。  と、怜は考える。そもそも、怜のトラウマでさえ、そういう類のものであるといって問題ないだろう。  存外、トラウマというものの半分くらいはそういうものなので

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『手を伸ばす』 第五話

 酒を持って戻ってきた女が座ると、一樹の言葉はどんどんエスカレートしていった。 「あの女は最悪のビッチだった」 「だけど女がビッチになるっていうのは、男の側にも責任がある」 「セックスが下手っていうのは、何よりも罪深いことだねぇ」  そういう言葉はいちいち怜の思い出したくもない、忘れようと努力している過去をこれ以上なく正確に呼び起こしていく。  はじめのうちは早くここから帰ろうと考えていた怜の意識は、もうそんなことはすっかり忘れて、過去の自分と村田瑞希という女の過ごした

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『手を伸ばす』 第四話

 怜の右手にはビールのグラスが握られていて、グラス半分ほど残っているビールはすっかりぬるくなってしまっていた。  緊張で汗がにじむ手は、油断すればグラスを落としてしまいそうだ。同様に、緊張によって高鳴る心臓が彼を、普段ならば考えられない速度でもって酔いの世界へと導いている。 だから、彼のグラスに注がれたビールはなかなか減らないのだった。 「どうしたの? いつも通りでいいよ」  はにかんだ女性に、怜はぎこちない笑みでもって返答する。  だが怜は、そう言った彼女自身が緊

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