失敗を共有するということ
スイスの音大の学期は先週で一区切りとなり、待ちに待った夏休みに入りました。
対して、ドイツの私の勤務先では大学のスケジュールはほぼ1ヶ月遅れで、まだ全ての授業や試験は終わっていないため、これから今月末までにまだ何回か出かけることになります。
このところ暑い日が続いていて、町を歩くと連日ライン川へ泳ぎに繰り出す人たちでいっぱいなのを見ると、自分もついバカンス気分になってしまいます。
バーゼルの音大では通常、5~6月が卒業試験演奏のピーク。
そんな中、急な代役として数年ぶりにリュート科の学生の助演をする機会がありました。
「本番の前日のリハーサルでは、こんな感じだったなあ・・」
「当日はやっぱり、独特の緊張感があったなあ・・」
「終わってから講評で、審査官にあんなことを言われたなあ・・」
などと、自分がちょうど10年前に卒業リサイタルをしたときのことが、良いこともそうでないこともひっくるめて、全てが懐かしく思い出されました。
さらにそれと前後して、かつて自分が同時期にリュート科で学んだ元同僚たちと、ほぼ10年ぶりに一緒に演奏するということが、たて続けにありました。
相手もまた音大で教えていて、今ではすっかり売れに売れて(!)いる面々ですが、久しぶりに会うと互いの近況の報告はもちろんするものの、やはりピンポイントで学生時代の思い出話になります。
こちらがすっかり忘れていることを向こうが鮮明に覚えていたり、あるいはその逆もあったりするのですが、中には今になっては恥ずかしいエピソードがたくさん。
「若気の至り」とはよく言ったものです。
互いに学生を終えて10年ほど経ち、
「あのときは信念を持ってああしたけど、長い目で見たら失敗だったなあ・・」
「だいぶ後になって、あのとき先生に言われたことの意味が分かった・・」
「よくあんな(未熟な)状態で、本番で弾いたよね・・」
こんな会話になるかと思えば、教える立場になったもの同士で、生徒への対し方、楽器の教え方、あるいは演奏現場(移動中を含む)での苦労話など、同業者ならではの意見交換、あるいは悩み相談になることもあります。
元同僚と、こういう話が普通にできるって幸せだなあ、と思います。
在学中から互いを過度にライバル視、もっと言うと敵視していては、まずそういう会話にはならないでしょうから。
自分の音大での学生時代というのは、とにかく失敗ばかりでした。
もとより完璧なものなど求めていなかったとはいえ、まあ考えつく限りの失敗をいろいろやらかしました。
言える範囲で書きますと、例えば大事な試験の伴奏で、これから弾く曲の譜面を持たずにステージに上がったらもう曲が始まっていたり、曲の途中で弦が下がって全く使い物にならなくなったり、ステージのくぼみに椅子の足が挟まって、リュートを抱えたまま本番中に派手に後ろにひっくり返って転倒して、パフォーマンスが中断したり・・なんてこともありました。
とりわけ3つ目のエピソードが一番傑作で、その場の目撃者も多かったので後々まで語り草になっているようです。
実は、今ちょうど連日リハーサルを一緒にしているグループのリーダー(歌手)が、私が伴奏中にステージでひっくり返った際の、卒業試験の主役でした。
ふとそのときの話になって、本人は
「あの時はマジで焦ったけど・・今となっては笑い話だね」
と言ってくれました。
一瞬凍り付いた現場でしたが、それから10年以上経てば、アクシデントや失敗もある程度美化され、また「ネタ化」されることもあるでしょう。
中には今でさえ、決して笑えないような失敗もあります・・でも私はずっと、学生時代は失敗してなんぼ、失敗を恐れて何もしないのはもったいない、というスタンスでやっていたので、あからさまな失敗をしても、後に引きずることはなかったです。
それぞれの目指すものも、個性もバラバラだったリュート科の同僚たち。
その同僚たち同士の間では、特にギラギラしたものを感じたことはありませんでした。(いや、実は相手はギラギラしていたけど自分が気づかなかったというパターンもあるかもしれないですが・・でもたぶん違うでしょう!)
それでいて、やはり互いに「切磋琢磨」していた、という印象が強いです。
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最近『菜根譚』を読んでいて、この一節に出会いました。
現代語訳は、ざっとこんなところでしょうか。
「他人と共に失敗を分かち合うのは良いが、成功した功績は共有してはならない。
なぜなら成功を共有しようとすれば、仲たがいの心が生じるからだ。
他人と苦難を共にするのは良いが、安楽を共有してはならない。
なぜなら安楽を共有しようとすれば、憎しみの心が生じるからだ。」
ここで言われているのはひょっすとると、共同作業における失敗経験のことかもしれません。しかし個人レベルでの失敗経験に置きかえても、充分にこの訓示は意味を持つと私は思います。
過去の互いの失敗をあげつらうことなく、むしろ互いにそれを学びにするべきではないでしょうか。なので同僚たちや同業者たちとは、進んで自分の失敗経験は共有したいと思っています。これは場合によっては勇気のいることかもしれません。
また最近は、自分が教えている若い学生たちに対しても、そうあろうと心がけているところです。
なぜならそうすることで、学生たちはかつての自分と同じ失敗をしなくて済むかもしれないから。