日記と文章に関する雑記

人と喋るのが好きだ。が、喋っていて楽しい人間はかなり少ないので合致する人間にはこちらから頻繁に話しかけるようになる。合致するにしても全ての趣味が一致する筈もないのでそれぞれの趣味の話ができる人間を数人ずつ確保しておこうとしているのだが、それでも多趣味であるが故の無理が生じ、或いは人に話すにはあまりに個人的な内容というのもあり、人に話すのに不向きな話題も少なからずある。その問題の解決法に俺が選んでいたのは日記だった。俺の字は所謂ミミズが踊るような雑な字だが、半ば行書体を取り込んだ極めて癖の強い字は我ながら結構気に入っており、万年筆で字を書き続ける作業そのものが好きだった。

日記は高校の頃友人(クマ)の提言により書き始め、数年で十数冊になった辺りで次第に書かなくなった。ただあった事を書くだけではつまらないので小説じみた文章で書くようになり、どこに書くべきともつかぬ創作メモとしても用い、また夢日記としても使っていた。知らない語彙を見つけた時や神社に寄った時は場所と社号を記した(神社巡りの趣味があり、一時期は平均すると2日に1社は参拝しているという年もあった)。

そうする内に独自のルールが次第にできていった。日記でありながらも誰かに解読される事を想定している為、知られるとマズい事は書かない。書いていて気分が悪くなる事も書かない。日記帳として使うノートは毎回違うものにする。必ず日毎に題をつけ、最後は「然らば。」で締める(これはnoteにも受け継がれた)。

多い日には10頁を超えるというのに、書くべき事が何も無い日は数行の散文で終わってしまう。それではつまらないので、日記に書けるような事を毎日やるよう心掛けるようになった。これは悪くない傾向だったと思う。同じような理由で、先月何もしてなかったと思いたくないが故に月に1度はどこか遠出していた気がする。思い出す事が何も無い日々は空虚であるし、常日頃何かしらの集積や研鑽は欲しいものだ。


日記は比類なき聞き手であった。自分以外には知らない事や興味を抱かない事を書いても何ら気負うものがない。時たま見返すと忘れていた事が書いてあって面白い。それと比べるとnoteは、そう多くないとはいえ不特定多数の人間が覗きに来る。妙に意識の高い見知らぬnoteの住人は読者として想定していない(評価数など気にしていない)が、少なくとも俺の事を知るTwitterのフォロワーがある程度まともに読めるものでなければならない。「古民家に住んでいる話」シリーズはその性質上俺が身内と呼ぶ知人・友人の名が次々出てくる為、俺やその周辺人物を全く知らない人間に向けたものでない事は読んでいて察しくれるとは思うが、こればかりはフォロワーに対してもやや不親切である感は否めない気がしないでもない。そこまで気にすべきではないんだろうがね。

記事を読んだ知人は大抵「面白い」という感想を送ってくるが、さてどうだろう。小説を書く人間である為か一連の記事も一応捉え方としては自分の作品のそれと近いのだが、創作者は自分の作品の価値はわからないものだろう(絵の値段の話はTwitterで定期的に話題に上がる)。ある程度読者層を想定しなければ書けないものだが、それさえ決まっていればあとは自分が書きたいものを書きたいように書くばかりで、自然とそれなりに気に入ったものになる事が多い。そして自分が気に入っているのだから他人からの言葉はあまり気にかけていないし、特に参考にもしていない。

ついでに俺の絵についても触れておくが、描きたいという内的欲求に従って手を動かし、完成すればその絵には興味がなくなる。売値は自分ではわからないのでオークションが楽で、思いの外高く売れてくれたので小遣い稼ぎを兼ねるようになった。Twitterを見ていると世の絵師達は自分の絵を好きだと言ってくれるのが最上の喜びらしいが、これは俺にはわからない。無論俺の絵を実際に目にした知人がひたすらじっと眺めた上で感嘆の声を上げる様を見るのは実に心地良いもので、何度も見たいとは思うのだが、どうにもその動機だけではああいった描き方はできない・・・・・・かなり強い動機を必要とする描き方ばかりしている。感心されるのは好きだが、俺の絵を誰かが好きであるか否かは興味が無い。濁さず言えば、他人の好みなど知った事ではないという事だ。

俺の性質は以下の3点にまとめられる。一つ、一度強い関心を持つとそれにとことん傾倒し、しばしば創作の原動力となる。二つ、幸か不幸かその対象がコロコロ変わる。三つ、興味を持った対象以外への関心や行動力は皆無となる。・・・・・・故に語れる分野は多く、元々の知的好奇心もあって知識の総量は多いのだろうが、一般常識が欠け落ちている事が多く、興味が無い事はとことん何も知らなかったりする。やり方は一点特化だが、長い目で見ると中級者レベルのものが複数あるという形になる。上級者を目指すのが難しいという性質でもある。

この性質ばかりは昔からのもので如何ともし難い。厄介なのは創作物を出す時で、ハマっている時期と原稿期間がある程度一致していないと作業にならない。そして何年も毎日絵を描き続けるといった事が難しく、楽しみによる習慣が長続きしない。苦痛と義務感を伴う「努力」は非効率で、努力を努力と思わず長期的に続けられる事こそ適性ないし才能であろうと思う。これ無しに1万時間の壁(必ずしも文字通り受け入れられる概念ではないが、有用である事には違いない為ここでは用いる)を突破する事は困難で、その点で見ると何かしらのプロになるには些か不利な性質である。

ただ、小説にはそれなりに向いているのかもしれない。絵はひたすら描かない事には上達は望み難いが、小説は少なくとも絵の道程ハッキリした練習法が確立されているわけではないし、ある程度上達するとそれ以降は作風によるものが大きくなる。書いた方がいいには違いないが、急に小説家になろうと思い立ってそのままプロとしてやっていけるレベルのものを出してしまう人間もいる。文章を書く事自体には飽きもないし、語れる分野が多い事が大いに味方する。逆に、絵を志そうと思ったのは元々好きだった事に加え練習も上達具合もわかりやすいという理由が大きい。もし絵が全く描けないのであれば小説を書くなりゲームを作るなりに打ち込めたのだろうが、中途半端にできてしまうから諦めもつかない。長い目で見て多芸を目指す他あるまい、と思っている。ひたすら絵ばかり描いている人間には勝てない。


一部のフォロワーからはnoteで小遣い稼ぎをするよう勧められているが、取り敢えずnoteゾ邸シリーズは自慢と宣伝を兼ねまだ無料でいいと思っている。やるとしても月100円程度の定期購読がいいところだろうか。noteで書いている理由もTwitterよりは長文で上手くまとめられるからというものだ。有料記事のは時たま書き溜めている1件ぐらいしか予定がないのだが、今後どうしていくかもぼちぼち考えていこうと思う。有料記事を買ってもらうよりは、Amazonの欲しい物リストから何か適当なものを買ってくれる方が助かる。

https://www.amazon.co.jp/hz/wishlist/ls/2DSZGFQ9P49H2/?ref_=lol_ov_le

そんなわけで今後ともヨロシク。

然らば。


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