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【コンサル物語】会計士誕生の歴史④〜文学作品に見る会計士 『人間の絆』編〜

 シャーロック・ホームズシリーズに登場する会計士をご紹介しましたが、描写があまりに少なすぎて会計士の様子を知るには想像の域を超えません。そこでもう一作品、20世紀前半のイギリスを代表する作家サマセット・モームの自伝的小説『人間の絆』を紹介します。この作品では19世紀末のロンドンの会計事務所の様子が描かれており、当時の会計士の様子を知ることができる貴重な文学作品です。小説からの引用を行いながらご紹介したいと思います。

 引用部分は全て行方昭夫氏の翻訳版(岩波文庫)からとさせていただきました。

 ちなみにこの作品は会計士が主役の小説ではありません。主人公フィリップの青春時代を描いた作品全体の中で、20歳前後の一年間の出来事として会計士のくだりが書かれているという構成になります。

 主人公フィリップが将来のことについて両親と会話するシーンが、小説の中で会計士が登場する最初のシーンです。19世紀のイギリスで高貴な職業といえば聖職者、医者、弁護士が一般的でしょうが、フィリップの両親(父は牧師)もジェントルマンに向いた職業として法律家、聖職者、軍人、医者のどれかになって欲しいと考えていました。フィリップの意向も合わせると弁護士がいいのではという結論になりました。そこで早速知り合いの弁護士に見習いとして事務所で雇ってもらえるか相談したところ空きがないということでした。そのとき弁護士から代わりに紹介されたのが公認会計士という職業でした。作品のなかで会計士について書かれている場面、描写のリアリティさに私はかなり衝撃を受けました。少し引用します。

(知り合いのニクソン弁護士は)公認会計士のほうがよいと忠告してきた。公認会計士など牧師夫妻は聞いたことがなかったし、フィリップも同じだった。しかしニクソンからまた手紙が届き、近代商業の成長で会社の数が増えたため、依頼人の財政状態を整理するのに、従来のやり方では不充分になり、新しく会計士の事務所が出来た、と説明してきた。数年前に国家による免許制が定められ、それ以来、公認会計士は次第に格もあれば、金儲けにもなり、重要な職業となってきているというのだ。 ニクソン氏がもう三〇年来世話になっている公認会計士事務所にたまたま見習いの空きがあり、フィリップを三〇〇ポンドの費用で面倒見てやってもよいと言っている。
(中略)
牧師がニクソン氏に、紳士にふさわしい職業かと問い合わせたところ、国家免許になって以来、パブリック・スクール出身者や大学出の者がどんどんその道に進んでいる、ということだった。

 当時のイギリス社会で公認会計士という職業がどのように見られていたのか、手に取るように実によく分かる描写がされています。19世紀のイギリスで会計士がどのように誕生し育ったかの描写は違和感ないですね。そんな中で一般的な家庭では会計士という職業は全くもって認知されていなかったというのが作者の考えです。1831年の破産法で初めて会計士という職業が認められ、50年後の1880年にはイングランドでも公認会計士が誕生していますが、一般人には全く知られていない職業だったということです。

 次にご紹介するのはフィリップが公認会計士としてロンドンの会計事務所で働き始める場面です。ここでは会計士として成功するということがどういうことなのかがよくわかります。一方で、19世紀末のロンドンの会計事務所では、パートナーとその下で働くスタッフとの間に明確な社会的区別が生じるようになっていたことが読み取れます。

 ハーバート・カーター会計事務所のパートナーとして登場するカーター氏の部屋は実に立派で、その人物も紳士然とした余裕を感じる。

大きな机と大きなひじ掛け椅子が二つある。床にはトルコ絨毯が敷かれ、壁面は狩猟の場面の版画で飾られている。カーター氏は机に向かっていたが、フィリップと握手しようと立ち上がった。 長いフロック・コートを着ている。軍人といった印象だ。口ひげはワックスで固めているし、白髪は短く、こざっぱりと整え、姿勢もいい。活気のある話し方で、エンフィー ルドに住んでいる。スポーツの試合や田園地帯の魅力を説くことに熱心だった。

 紳士然。そう、会計士という新しい職業で成功した人達も中産階級の仲間入りをすることで、新たなジェントルマンとして伝統的なジェントルマンとその文化を共有する一員になっていたのでしょう。パブリック・スクールから大学はオックスフォードやケンブリッジに子弟を通わせるようになっていました。カーター氏が自分の息子のことをフィリップに話す場面です。

(カーター氏の)息子はケンブリッジ大学に行っているが、パブリック・スクールはラグビー校だった。ラグビーはいい学校だ、何しろ上流の子弟ばかりなのだ。息子は二年もするとここに見習いに来るから、きみも仲好くしてやってくれ。 ここでしっかり勉強してくれたまえ。講習会には必ず出るんだよ。 この職業の品位を高めるために、紳士に来てもらいたいと思っているのだ。

 カーター氏は8月にはスコットランドに避暑に行けるような優雅な人生を送っています。一方で同じ事務所で働くスタッフの様子は正反対です。少し長いですが、事務所ではパートナーのカーター氏に次ぐNo2のポジションにいるグッドワージー氏との顔合わせの場面を引用します。

フィリップは廊下を横切り、ほとんど家具のない小さい部屋へ通された。小柄なやせた男が暖炉を背にして立っていた。平均的な身長をかなり下まわっているのだが、頭はばかに大きくて、体の上にだらしなくのっているようなので、妙に醜い感じを与えた。 目鼻立ちは平たく、広がっているが、淡い色の目だけ飛び出ている。髪は薄く、砂色である。頰ひげが顔一面に不揃いに生えていて、普通なら、まとまって生えているはずの箇所にまったく生えていないといった状態である。肌は青白く、黄ばんでもいる。フィリップに握手の手を差し出した。にっこりすると歯が欠けているのが見えた。話し方は 相手を見下すようなところと、小心そうなところが混じっていて、どうやら、自信はないくせに、偉ぶった態度を努めて取ろうとしているらしい。仕事が気に入ればいいがね、と言った。骨が折れる仕事だけれど、まあ、慣れれば面白くなるだろう。それに一応、 金になる仕事だから、その点が肝要じゃないかね。そう言うと、優越感と劣等感の奇妙に入り混じった様子で笑った。

 ハーバート・カーター事務所でも常務レベルのグッドワージー氏の様子でさえ上記のようですが、さらに下位のスタッフであるトムソン氏の場合はこうです。

トムソンは四〇歳になる、ひょろ長い男で、血色が悪く、黒髪で、不揃いの口ひげをしている。くぼんだ頬で、鼻の両側に深いしわがある。フィリップが年季契約の見習いだというので反感を抱いていた。フィリップは三〇○ギニー出して五年間見習いをする資力がある。そのおかげで地位の向上の見込みがあるわけだが、トムソンは経験も能力もあるのに、いつまで経っても週給三五シリングの下級書記のままだ。大勢の家族を抱えているため、ひがみ根性になっている

 グッドワージー氏にしろトムソン氏にしろ、パートナーのカーター氏との差は歴然です。単に収入の差だけではなく、ここには中産階級と労働者階級という社会的区別が生まれているということが読み取れます。会計事務所のパートナーともなるとかなりの高額所得者であったことも想像がつきます。

 モームの『人間の絆』からは、会計士という職業の陽のあたる部分と影の部分が混在した事務所の雰囲気をはっきりと感じることができます。19世紀末ロンドンの会計事務所の一側面を表していると捉えることができます。また、職業の特徴としては、フィリップ家のような教会勤めの父を持つ一般家庭には会計士という職業は全く知られていなかったこと、一方で産業界や法曹界では新たな中産階級を担う職業としての地位を得つつあったこと等が想像できます。

 もちろん、19世紀のイギリスを舞台にしたこの作品の中にはコンサルティングに関係するようなことはまだ全く出てきません。それは間もなく訪れる20世紀に本格的に始まる職業だからです。

 ちなみに、作者サマセット・モーム自身も18歳の頃会計士見習いとして働いていたことがあるようです。たった2ヶ月でやめてしまったようですが。


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