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【コンサル物語】孤児から会計士に

 1882年にノルウェーからの移民としてアメリカ中西部の町に移住してきたアンダーセン一家に、3年後男の子が生まれアーサーと名付けられました(※)。後に世界最大のコンサルティング会社となるアーサー・アンダーセン・アンド・カンパニーを設立する人物です。

※アーサーは8人兄弟の4番目

 16歳で両親を亡くし孤児となったアーサーですが、真面目に働きながら夜間の学校に通い一生懸命勉強をしていました。孤児のアーサーを雇ってくれた会社では、経理部長にまで出世していました。経理の仕事に関わっていく中で知った会計士という職業につけば、ずっと良い給料を手にすることができることもあり会計士になりたいと思うようになりました。そして1907年22歳のときに、孤児の時代を支えてくれた会社を辞め、当時アメリカでは最大手のプライス・ウォーターハウス会計事務所(後のPWC)のシカゴオフィスに転職しました。

 プライス・ウォーターハウスに入った翌年1908年にアーサー・アンダーセンは念願の公認会計士になりました。シカゴのあるイリノイ州で公認会計士制度が設立されたのが1903年、資格制度ができて間もなくの時でした。23歳のアーサー・アンダーセンは当時最年少の会計士であったようです

 プライス・ウォーターハウスで働いていたのはわずか3年ほどであり、この会社でパートナー(一般的に会計事務所やコンサルティング会社における最高職位)になるまで出世しようという考えは無かったと考えるのが自然なようです。アーサー・アンダーセンは自分の名前で会計事務所を持つことを常に考えていたということが分かる記録があります。

1913年11月、イリノイ州で会計事務所に空きが出ると、アンダーセン氏はこれこそ求めていたチャンスだと思い、12月1日、デラニー氏とともに会計事務所を買収し新たにシカゴに自身の事務所を開設した。

『THE FIRST SIXTY YEARS 1913-1973』(ARTHUR ANDERSEN & Co.)

 当時のイリノイ州の会計士制度は公認会計士になるために試験と実務経験を課していましたので、会計士の資格を取ることがプライス・ウォーターハウスに入社した目的の一つだったのかもしれません。いずれにせよアーサー・アンダーセンはプライス・ウォーターハウスを通過点と考えていました。一方でプライス・ウォーターハウスの方もトップ会計事務所の余裕を見せ、その後のアンダーセン会計事務所の成功を我が子の成長を見守る親の様に見守っていました。

 アンダーセン氏は1910年頃(25歳)にはシカゴ(イリノイ州)の北ウィスコンシン州のミルウォーキーにあったビール会社シュリッツ社に経理部長として入社しました。

 ミルウォーキーは、アメリカとカナダの国境にある五大湖の一つミシガン湖の近くの都市です。シカゴからはミシガン湖に沿って真北に約140km上がっていった位置にあります。

 シュリッツ社は当時のアメリカビール会社のトップメーカーでしたが、アンダーセン氏がなぜそのビール会社に入ったのか、なぜミルウォーキーという少し離れた場所にある会社にわざわざ入社したのか、目的が書かれた記録を私は見つけられていないため残念ながら現時点では分かりません。

 と言うのも、1909年からアンダーセン氏はシカゴにあるノースウェスタン大学で、新設されたばかりの商学部の講義を担当しており、毎日シュリッツ社と大学間を移動していたのです。ミルウォーキーからシカゴに向かって130kmほど南下していくとシカゴに着く直前に大学がありますので、毎日講義があるたびにその距離を通っていたと言われています。それほどまでの熱意を持てる目的が知りたいと私は思います。

 しかも、シュリッツ社で働いていたのはアンダーセン氏が自身の会計事務所を設立するまでの2〜3年だけでした。更に、アンダーセン会計事務所として最初に契約したクライアントはシュリッツ社で、その後50年以上アンダーセン社の顧客リストに名を連ねていました。良好な関係が始まるきっかけを知りたいものです。

 少し見にくいですが、以下のマップはシカゴの鉄道網マップです。ちょうどシカゴ中心部から真北のミルウォーキーに向かって、シカゴ&ノースウェスタン鉄道(C&NW)が複数路線敷かれているのが分かります。アンダーセン氏はこちらの鉄道を使って長距離を往復していたのかもしれません。

『ENCYCLOPEDIA of CHICAGO』(http://www.encyclopedia.chicagohistory.org/pages/1774.html)

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