【感想】モノの声を聴く〈ラオス×日本 ろう者と聴者が協同するオブジェクトシアター〉『いのちあるもの 闇の中から』
昨年のワークインプログレスから個人的に注目しているプロジェクト〈ラオス×日本 ろう者と聴者が協同するオブジェクトシアター〉。今月21日の冬至に〈1年後〉となる舞台初日『いのちあるもの 闇の中から』を拝見しました(@神奈川芸術劇場KAAT 中スタジオ)。前回同様の新鮮な世界の手触りはそのままでしたので、ぜひ昨年の記事も併せてご覧ください。昨今、ろう者と聴者が協同/協働で舞台をつくる動きが各所でみられますが、その中でも〈モノ〉が媒体や触媒となって生まれる〈オブジェクトシアター〉は、両者が対等な関係性のなかで生まれる世界でもめずらしい舞台です。ぜひ多くの方に存在を知って頂きたいと思いました。
昨年のワークインプログレスからの〈変化〉は、外部から演出・振付として招かれたモモンガ・コンプレックス・白神ももこさんの世界観に、ラオスの劇団カオニャオ主宰ラタナコーン・インシシセンマイさん(通称トウさん)が演出にも加わったことでしょう。言い方を変えれば、コンテンポラリーダンスや現代アートの文脈ともつながる高い抽象性に、ラオスの演劇的な物語性や〈イキモノ〉としての〈かたちの具体性〉が加わったということです。
それを演じる/生み出す者たちは、俳優/パフォーマー/ダンサーであり〈実験者〉とも言える。経験を積んだ舞台のプロたちがワークショップの場に立ち返るような新鮮な時間だったはずです。手元の資料に〈この2年はモノに向き合い、感じ、その声を聴く日々でした〉とあるように、ヒト/モノの〈最適な関係性〉を見つけ出す試行錯誤には、既に〈国際交流〉〈異文化理解〉の本質的な課題も内在していると思いました。モノに〈いのち〉を吹き込むとはどういうことか。モノを一方向的に操作するのではなく、内側から生まれる〈声〉に耳をすます態度は、前記事の〈ケアする人たち〉の関係性の話にもつながります。
考えてみれば〈人形劇〉はとても古く奥深い芸術ですし、現在のAIロボットの開発倫理を考える上でも、実は欠かせない芸術だと思いました。何よりも、その演者がなぜそのモノを選んだのか、どのような関係性を生みだしていくのか。繰り広げられるひとりひとりの世界の捉え方、関わり方、その多様性に驚いたり、魅了されるひと時でもありました。
演出家が敢えて意図したかは解りませんが、今回の舞台には〈二項対立〉の世界観が通奏していました。ヒト/モノ、日本/ラオス、音のある/ない、硬い/柔らかい、自然/人工、意味/無意味、言語/非言語、抽象/具象、生活/芸術、構築/脱構築、敵対/和解、静/動、内/外。モノとはそもそも〈世界〉である。オブジェクトシアターとは唯物論的な世界から、人間がいかに〈こころ〉を見つけ出すか?という壮大な実験なのかもしれません。〈モノを介せば通訳者がいらなくなる〉と話していたトゥさんの言葉も印象的でした。
舞台で繰り返される〈対立〉構造も、ヒトとモノに〈関係性〉が生まれると劇的に変容することに気づきます。確かに〈いのち〉が誕生する瞬間がある。モノとの関係性のなかで変わっていくのは、実はヒトの方なのです。中でも日本とラオスに共通する布〈かや〉の柔らかさ、大きさ、その変幻自在な存在と人間たちの共同関係は示唆的でもありました。世界は柔らかく在りたい。
最初に配られた〈本日の登場オブジェクト〉のイラストは、モノ本来の〈名前〉や〈使い方〉が説明された一種の〈情報保障〉でした。今思えば〈世界地図〉だったとも言える。舞台冒頭でステージいっぱいに提示された〈モノ〉たちは圧倒的な存在感でした。モノで溢れる世界そのものでもある。まるでゴミのように見えるモノにも名前や意味があると解ります。その全てのモノとヒトの様々な物語や葛藤を経て、最後には奇妙で絶妙なバランスを保った〈新たな世界〉が出現する。バラバラだったモノたちが全て関係し合って存在するのです。その光景には西洋のトルソーもあって、まるでシュルレアリスムの1枚の絵のように、危うさと美しさが調和した〈いのちあるもの〉が生まれていました。
〈備考として〉
音のある・ない世界の境界をきく
このプロジェクトが〈ろう者と聴者の共同作品〉であることに着目して、少しだけ会場や劇中に使われた〈音楽〉について触れておきたいと思います。ちなみに初日の客席は聴者のみだったようです(手話通訳あり。台詞/声のない非言語舞台は、ろう者にも十分楽しめる内容でした)。
冒頭で、ラオスの民族楽器〈ケーン〉の音楽と、日本の〈笙〉を使った雅楽が流れていました。実は日本の〈笙〉の原型はラオスの〈ケーン〉だと言われています。雅楽の笙は〈天から差す光〉を表しますが、ケーンはどちらかといえば軽やかで明るい印象がありました。似て非なるアジアの文化。ラオスと日本は古来からつながっていることを音楽は教えてくれます。
印象的だったのは、途中でラフマニノフの『パガニーニの主題による狂詩曲 18番』が使われたことです。昨年の白神さんの世界観を思い返すと違和感がありましたが、劇中音楽は『使用することに躊躇もあったが、きこえる演者の気持ちがアガルことで、ろう者も触発される。相乗効果がある』理由から使用したと、上演後のトークで説明がありました。ラフマニノフはトゥさん選曲だったようですが、日本ではCM等で〈耳になじみすぎている〉ため、選曲の視点にも異文化を感じました。
音楽にも言語/非言語があります。ラフマニノフは〈西洋の音楽言語〉を使った作品です。一方で客席での生演奏、最後に使われていたパーカッシブな非言語のリズム音楽は、いずれも超言語的でしたし効果がありました。生演奏はろう者の人にも〈いま、音楽が流れている〉ことを視覚的に伝えることができますし、調性のないリズム音楽は聴者に固定観念を生まず、イメージに制限をかけないメリットがあります。
ろう者と聴者の境界で使われる〈音楽〉は、聴者に決定権があります。この非対称性をどのように解決していくのかは、これから議論が進む領域だと思います。さらにこの先、現在当事者研究が進んでいる〈ろう者のオンガク〉も聴者との〈境界〉に出会う日が来るはずです。領域横断的な舞台作品には合理的配慮の観点から〈ドラマトゥルク〉のような音楽専門のアドバイザーが必要になるだろうとも思いました。
個人的には、トースターが歩くオト、そのダイヤル式タイマーの音、モノそのものの音も印象的でした。生活の中に生まれるモノオト、〈日常を聴く行為〉とは〈モノを聴く行為〉、つまり〈世界をきく〉サウンドスケープだとあらためて気づきます。
2010年にラオス政府に初めて認可された民間劇団カオニャオに、ろう者が加わったのは2015年。〈見立て〉から始まった古くて新しい〈オブジェクトシアター〉の先駆者として、今後も注目していきたい劇団です。そして、既に80年代からろう者と聴者の協働人形劇を世界各国で公演する〈デフ・パペットシアター・ひとみ〉は、〈ヒトガタ〉から〈モノ〉への気づきを得たことで、さらに表現の幅を広げていくことでしょう。
〈異文化理解〉は焦らず、ゆっくり時間をかけながら。モノとの関係性だからこそ提示できる〈新しい世界のかたち〉を今後も楽しみにしたいと思います。是非継続して頂きたいプロジェクトでした。
ラオス×日本 ろう者と聴者が協同するアジアのオブジェクトシアター
『いのちあるもの闇の中から』
詳細はKAATホームページにて→
主催:(公財)現代人形劇センター
共催:国際交流基金
共同制作:公益財団法人現代人形劇センター、国際交流基金
提携:KAAT神奈川芸術劇場
助成:神奈川県マグカル展開促進補助金
後援:(一財)全日本ろうあ連盟、(公社)東京都聴覚障害連盟、(公社)神奈川県聴覚障害者協会、NPO法人川崎市ろう者協会、(一社)横浜市聴覚障害者協会、NPO法人国際人形劇連盟日本センター
(おまけ)