『片割れ』 第18回坊っちゃん文学賞 二次審査通過作品

 一万円を失くしたことに気がついたのは、午前九時の大学の講堂だった。

 といっても、一万円札を道に落としたわけではない。販売価格二万円の、ちょっと高額な左右分離型ワイヤレスイヤホン。その左耳に装着していたほうの片割れを、通学中に落としたようなのだ。

 イヤホンの片側を紛失した場合、その損失額が半分なのかどうかは定かではないが、「二万」という数字から、「二で割って一万円分」という計算式が瞬時に浮かび上がった、というわけである。そして、一万円という金額はスーパーのレジバイト二日分にあたるわけで——

「あっ!」

 という、楽譜にするとエフが三つくらい付きそうな僕の裏声が、イヤホンを外そうと左耳に手を添えたのと同時に、静かな朝の講堂に響き渡ることになった。

 声に反応した学生たちが周囲を見回すなか、赤くなった顔を隠すように背を屈め、なるべく時間をかけてバッグから教材を取り出す。悲鳴は広い講堂内で反響していたので、目立たずにいれば声の主探しは難航することだろう。きっと。

「どうした? 朝からいい発声だな」

 と、ニタニタしながら隣の席に腰を下ろしたのは、漫才サークルでコンビを組んでいる島崎だ。ネタでは島崎がボケで僕がツッコミだが、普段の生活では僕がイジられることのほうが多い。中学からの腐れ縁でもあるこいつには、〇・五秒の叫びでも僕の声だとわかるらしい。

「ああ……。これだよ。ネットショップから昨日届いたばかりなのに片方落としたっぽい。笑えることに、落とした場所の心当たりもこれっぽっちもない。」

 右耳から外したほうのイヤホンを手のひらに載せ、島崎に見せる。

「ふはは! なるほどな。そりゃ変な声も出るわ。でも、こういうのって失くしたときに探す機能とか付いてるんじゃないか?」

「え?」

 鏡を見なくても、自分の表情が明るくなっていくのがわかる。島崎いわく、高級なワイヤレスイヤホンには大抵GPS機能が内蔵されているものらしい。白い歯を見せながら声をかけてきたときは足でも踏んでやろうかと思ったが、やはり持つべきものは相方というものだ。

 島崎のおかげでイヤホン発見への糸口をつかんだ僕は、午前中の講義をショックでふいにせずに受けることができたのだった。


 昼休み、イヤホンに印字してある型番から製品ページにアクセスし、取扱説明書をダウンロードすると、たしかに『紛失した際の探し方』という項目があった。ただ、島崎は「アプリとかでちゃちゃっと見つけられるでしょ」と言っていたのだが、取扱説明書に記載されていたのは次の文章だった。


     *     *     *

【紛失した際の探し方】

 本商品にはGPS機能は内蔵されておりません。

 左右いずれか片方のイヤホンを紛失なさいました場合は、紛失なさっていないほうのイヤホンを耳に装着し、失くした片割れを強く念じますと、それを取り戻す方法が自然と聞こえてきます。

 左右両方のイヤホンを同時に紛失なさいました場合は、恐れ入りますが、諦めて新しい商品をご購入くださいませ。

     *     *     *


『失くした片割れを強く念じますと』


『それを取り戻す方法が自然と聞こえてきます』


 ——およそ電子機器の使用方法説明とは思えない言葉が並んでいる。きっと取扱説明書を書いた人間のセンスのないジョークだろう。初めて訪れたネットショップでの評価の高さを信じて、聞いたこともないメーカーの商品を買う、などということは今後控えるようにしよう、と僕は肝に銘じた。

 不幸中の幸いというべきか、イヤホンの操作ボタンは、失くしていない右耳側に付いている。つまり、右耳側だけでも一応の音声の再生はできるということだ。しばらくは片耳だけで音楽を楽しもう……デザインが気に入っていただけに、失くしたのは本当に残念だな……それにしてもいったいどこで落としたんだろう……などと考えながら右耳にイヤホンを装着すると、


「……キ……グチ…………ンゴウ………………」


 と、音声を再生してもいないのに雑音のようなものが聞こえる。どうやら、頼みの綱の右耳側まで故障したらしい。これできっちり二万円分を失ったことになる。片側を落としたのは僕の過失だが、買ってすぐに故障するような商品には、あとできちんと低いユーザーレビューを付けなくてはならない。次は怪しいネットショップなんかではなく、家電量販店で新しいイヤホンを探そう。


「エキ、キタグチ、シンゴウ」


 そんなネガティブな思考がぐるぐるしていた僕の耳に、今度ははっきりと三つの単語が聞こえてきた。駅。北口。信号。そういえば今朝、大学の最寄り駅を出てすぐの横断歩道で青信号が点滅に変わり、走って渡りきったことを思い出した。そのときにイヤホンが耳から外れた気がしないでもない。

 まだ昼休みは始まったばかりで、駅まで行って戻るだけの時間は残っている。なけなしのバイト代を棒に振った気落ちのせいで聞こえた空耳だろう、とは思いつつ、一縷の望みを胸に僕は駅前の信号機を目指した。すると——

「あった!」

 なんと、拾った誰かがそうしてくれたのか、信号機の押しボタンの上に、失くした左耳側のイヤホンが置かれていたのである。空耳と現実が一致するなんて、すごい偶然もあるものだ。大学を出たときとはまるで違う足取りで、僕は来た道を引き返した。


 話がある。と島崎に呼び出されたのは、午後の講義が終わったときだった。

 講義でもサークルでも顔を合わせるのに、二人で会って話そうと言われるようなトピックに、僕は何の心当たりもなかった。強いて思い当たることといえば、学生漫才コンテストへのエントリーについてである。

「本当にごめん。コンビを解散してくれないか」

 午前に会ったときとは正反対の神妙な面持ちの島崎から告げられたのは、予想もしていなかった言葉だった。

「研究室と就活が最近忙しくてさ、漫才に使う時間がないんだ」

 これまで漫才を辞めたいような素振りは全く見せていなかったのに。なにより、決勝で四位をとった昨年のコンテストの打ち上げで、来年は絶対に優勝しよう、と悔し涙を受かべて肩を組んだ気持ちは忘れてしまったのか。もちろん僕は引き止めたが、島崎の意志は揺らがないようだった。

 学生食堂に取り残された僕は、呆然と島崎の背中を見つめるしかなかった。


 良くないことは続くもので、帰宅した僕は、専攻する学科のテキストの下巻が見当たらないことに気がついた。来月の講義から下巻の内容に入るということで、昨晩に殊勝にも予習をしていた記憶。そして今朝、眠い目を擦りながら急いで雑誌類をまとめ、資源ごみの収集に送り出した記憶。その二つの記憶が最悪の形で繋がる。


「……シュ……シャ……ンワ…………」


 耳に装着したままだったイヤホンから、昼休みに聞こえたのと同じような音声が聞こえてくる。もしやと思い、もう一度、下巻のテキストについて強く念じてみる。


「シュッパンシャ、デンワ」


 イメージの強さに比例して、音声は明瞭に聞こえた。まさか、おたくのテキストを手違いで捨ててしまいました、と出版社に電話をかけろというのか。あまりにも非常識ではあるが、新しく買い直すのも財布へのダメージが大きい。半信半疑、いや、一信九疑くらいの心持ちで、上巻のテキストの奥付にある番号に電話をかけてみることにした。

「突然すみません。有機化学のテキストの下巻についてなんですけど……」

「あっ。製本機の不良で落丁が発生していた件ですね。大変申し訳ございません。ご指定のご住所に急ぎお送りいたします。お持ちのものの返送は必要ございません。」

 マジかよ、という言葉を必死に喉元で抑えて、僕は住所を告げ、電話を切った。

 イヤホンの左耳側と、テキストの下巻。二回も失くしたものが取り戻せたとなると、やはり、聞こえてきたのはただの空耳ではないのかもしれない。ふと、取扱説明書に書いてあった文章を思い出す。


『失くした片割れを強く念じますと、それを取り戻す方法が自然と聞こえてきます』


 そう書いてあったはずだ。つまり、「失くした片割れ」というのは、イヤホンの片側だけに限らないということなのか。

 それならば。

 コンビの片割れ……いや、相方であった島崎のことを、できる限り鮮明に思い描く。

 中学一年で出会ったときから、いつも一緒にいた大事な存在。島崎がお笑いに誘ってくれなかったら、僕はもっと暗い性格になっていたかもしれない。僕がステージで掛け合いをする相手は、あいつ以外には考えられない。


「——————」


 イヤホンからは何も聞こえてこない。それならばと、島崎と僕がステージに立っている写真をスマートフォンに表示し、目に焼き付けるようにしっかりと見てみる。


「————————————」


 やはりイヤホンは黙ったままだった。島崎とコンビを再結成する方法はもう何もない、ということなのか。


 そんなとき、玄関のチャイムが鳴った。

「誕生日おめでとうございます! サプライズで来ちゃいました!」

 インターホンのモニターを確認すると、漫才サークルの後輩がプレゼントらしき包みを持って立っている。

 そう、いろいろなことがありすぎて忘れていたが、今日は僕の誕生日だったのだ。そういえば、このイヤホンも自分への誕生日プレゼントとして買ったものだった。

 後輩の気持ちを無下にするようだが、今は誕生日を喜ぶ心情ではない。どう応えたものかと思いつつドアを開けると、後輩に隠れるように、もうひとり誰かが立っている。

「誕生日おめでとう! 悪い、俺の演技が上手すぎたかな」

 後輩の背後から勢いよく現れたのは、テレビ番組で目にするような「ドッキリ大成功」のボードを持ち、少し申し訳なさそうな顔をした島崎だった。

 もとより、僕と島崎のコンビは解散していなかった。

 イヤホンが教えるのは「失った片割れを取り戻す方法」なのだから、いくら念じても、イヤホンからは何も聞こえるはずはなかったのだ。

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