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父と私の7日間

若い頃、父は酒を飲んではくだを巻いた。
最初は瓶ビールだった。母は父にお疲れ様の感謝の意味で毎月ケースで購入していたが、父はあればあっただけ飲んでしまう。一晩で1ケースを開けることもざら。

たちが悪いのはくだを巻くだけではない。シモの始末ができなくなる。きちんとトイレの中におしっこができない。階段の上からおしっこをする。当時、幼稚園児くらいの私さえドン引きした。

そんなことが続いたので、母はついにビールを買わなくなった。買わなくなったから安心……とはいかない。今度は自分で1カップを3つ買ってくるのだ。母親に「早く二階に行きなさい」と父から離された。リビングにたった1人になっても父は飲み続け、誰かが通るのを待った。3個の日本酒を飲んでも、飲み足りない父はそれから家を出て飲み屋へ行く。何度飲み屋のママが困って我が家に電話をかけてきたことか。

***

そんな父が亡くなったのは2017年2月。寒い日だった。

病気をしてからお酒もタバコも一切やめた父はいつも静かにテレビの前に座っていた。

その日はいつもと違くて、1階と2階をちょろちょろ行ったり来たりしていた。テレビの前で寝てみたり、すぐに2階の寝室へ行ったり……。

たまたま実家にもどっていた私はそんな父に
「私はもう結婚できそうにないや。ごめんね。」
なんて謝って、隣に並んで寝たりもした。

たまたま。

ランチにお好み焼きを食べようなんて母と話して、父に声をかけてみたけれど断られたり。

たまたま、ユニクロで購入した父へのプレゼントのTシャツは父に渡せずに終わってしまった。

***

ドンっという大きな音がして、ビックリして階段をのぼった。通路で父親が倒れていた。たまたま弟が夜勤明けで自宅にいたので二人で抱えて1階におろした。冷たくなった体を温めるためにストーブをたき、ホッカイロや毛布でぐるぐるにまいた。救急車まっていられない。ワゴン車に乗せて、救命救急のある遠い病院へ車を走らせた。

***

父親が亡くなったとき、葬儀までに7日間も寝かせてしまった。お寺さんでは別の葬儀が入っていて葬儀を入れることができず、さらに友引が2回入っていたのだ。
友引を気にしない地域もある。父の故郷も気にしない。とはいえ、私たちが住んでいる地域では友引は忌み嫌われる。我が家も友引は避けた。

7日間というのは長い。そして辛い。毎日父の顔を見るがまるで寝ているだけなのではないかという気がする。父の髭は伸びているのだ。魂が抜けてしまっても、身体が固くなっても。髭は伸びる。

声をかければ目が開くのではないか。

そんな気持ちになる。
すぐに葬儀を行えば考える余地も無かっただろう。しかし、7日間もあくと情が湧く。

死後何日目だったか忘れたが、私は早朝に起きた。まだ外が暗かったので、朝4時とか5時とかだったと思う。二階の自室から出て階段を降りているとチカチカした明かりが目に入る。

父が寝ている和室に目をやると、チカチカチカチカ電気が点いたり消えたりしている。

ものすごい速さで…。

その時、急に怖くなった。
自分の父親なのに、もう無くなっているのに。
『死』というものが急に自分の中に投げつけられたような感覚だった。

父は生き返った
何か私に訴えているのではないか
どこか痛いのではないのか
悲しいのではないか

いろんな気持ちがごちゃ混ぜになって私は階下に降りることができなかった。

父の髭が伸びるというのは、正しくは重力に負けて肌が垂れてくるからだ。必然的に髭が伸びたように見えるのだ。最後の7日間を過ごさなければ知らなかったこと。毎日ドライアイスを交換に来てくれる葬儀社の方に教えてもらった。

電気がチカチカしていたのは、家を建ててから三十数年。和室の電気は一度も変えたことが無かったので寿命だった。

それでも、あのとき私しかいなかったところで、電気がチカチカと点滅していたのには何か私への合図だったのではないかと思っている。父は私に伝えたいことがあったのではないか?と。

通夜の日。
私の地域では通夜の前に骨にする。
家から父親を出すとき、何とも耐えがたい言葉では言い表せない気持ちでいっぱいになった。

離れたくない
このまま家にいればいいのに

出棺は父をあの世に見送るための儀式。
だけど炉に入れられる姿を見て、私はなんて残酷なことをするのだろう。
本気でそう思った。


最期までお読みいただきありがとうございました!