母への手紙
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母への手紙

石島小夏

今日は母の命日。昨年、絵を描き始めて、ようやく自分の人生を取り戻した今、「私は大丈夫だよ。安心してね。」と心の底から言えるようになった気がする。 11年前に書けなかった手紙。そして、15年前に向き合えきれなかった母に向けて、手紙を書きたい。そんな気持ちになったので、今日、書いてみることにした。

『お母さんへ

お母さん、元気ですか?私は元気です。今は、夫と二人の可愛い子どもたちと楽しい日々を送っています。「絵描きになったよ!」って言ったら、お母さんはびっくりするかな?

15年前、お母さんが末期癌を告知された春。社会人になったばかりの私は、やりたいことがわからなくて迷走していたよね。あの時、お母さんとちゃんと話し合えなかったこと、ずっと後悔していたよ。お母さんの反対を押し切って、無理やり動いちゃってごめんね。

きっとお母さんは私の心配をしてくれていたんだよね。その後、私が苦しむことも気付いていたんじゃないかな?って思う。私はやってみないとわからないから、お母さんの心配を振り切って無茶をしたよね。そしたら、やっぱりすごく、すごく、しんどかったけど、当時めちゃくちゃやったこと、今は後悔してないよ。

けれど、お母さんにちゃんと説明できなかったことは、本当に後悔している。あの後、お母さんは気にしなように振る舞ってくれて、当時の話を出すことはほとんどなかったね。私も、どう切り出したらいいか、わからなくて、バツが悪くて、話せなかった。でも、ずっと謝りたかった。お母さんの気持ちを無視して、自分の思いばかり押し付けてしまったことを。もっとちゃんと、二人で話せたらよかったな。って思っているよ。

15年前は、お母さんときちんと向き合い切れなくても、でも器用にうまくやれたりするのかな?それが大人になるってことかな?なんて、ボケたこと考えていたけど、私は、そういうのできない不器用な人間だって忘れてたよ笑 お母さんが、不器用は死んでも治らないって言ってたけど、その通りだったね。

お母さんと向き合えなかった後悔があるから、あの後、お父さんには素直に思っていることを伝えられるようになった気がするよ。あんなにお父さんが怖くて、言いたいこと上手に言えなかったのに不思議だよね。結局、家にいた頃は、毎日のように長話をしていたお母さんに、最後は言いたいことが言えなかったなんて。本当にごめんね。

家族が同じ方向を見ていてなくても、相手を思いやることはできる、ということにも、ようやく気付いたよ。お母さんが亡くなった後、結婚して、夫やそのご家族との間に葛藤が生まれても、ちゃんと向き合って(時間がかかる時も、時間が解決してくれる時もあるけど)、伝え合うこと諦めない!けど価値観は違ってもいい。そういう根性と相手への尊重みたいなものが、お陰で身に付いた気がするよ。

お母さんとちゃんと話せなかったことを、いっぱいいっぱい後悔したから、その後、たくさん、練習したんだよ。生真面目な私らしいでしょ?笑 できるようになるまで、諦めないの。お母さんも知ってるよね。お陰で、昔より人と向き合うのが怖くなくなったよ。これもきっとお母さんが心配してくれていた部分だよね。「人が好きなくせに、人と関わって疲れるんだから!ちゃんと休みなさい。」っていつも言ってくれてたもんね。

でもね、そうやっていろんな人と関わる中で、自分とも向き合えるようにもなったんだよ。子どもたちが生まれて、二人の背中を押したい!と、感じる中で、自分の背中も押せるようになったよ。

今、私は絵を描き始めて、小さい頃、お母さんにたくさんのものをもらったことにも気付いたよ。いきなり絵を描き始めた私が画商さんをご紹介頂き、グループ展で取り扱っていただけたのは、色彩センスが大きかったみたい。「この色彩感覚は、アーティストの家で育った血筋だよ」、って言って頂いたよ。きっと画商さんは、お父さんのことを言ったんだと思うけど、その話を聞いて、私はお母さんの顔が浮かんだよ。

塗り絵しながら、色相環を教えてもらったこと。世界の色は三つの色から生まれていると教えてもらったこと。毎晩読んでくれていた絵本のこと。福音館のこどものともやたくさんのふしぎ、を定期購入してくれていたこと。私が描く色や世界は絵本の中から影響を受けているものが多くて、それはお母さんが育ててくれたものだと思う。お父さんの造形や遊び心と、お母さんが見せてくれた色の世界は今の私の作品作りの原点になっているみたい。本当にありがとう。

今、二人の母になって、小さい頃、お母さんがしてくれていたことの凄さがわかるよ。本当にありがとう。そして、私の中にいるお母さんが、子どもたちと接するとき、絵を描くとき、世の中に出ていく時、ずっと活躍してくれているよ。お母さんみたいなこと、言ってるな、ってよく思うもん。

お母さんがいなくなっても、私はずっとお母さんと一緒に生きているよ。子どもたちがお母さんに会いたがる時、やっぱり寂しいな…って思うし、今もときどき、お母さんが恋しくて私も泣いているけれど、でも、ずっと一緒に生きてくれているよね??そう思って、日々を送っています。まだまだ、怒られそうなこともやらかしたりしてるけど笑、でも、お母さんのお陰で、長い目で見たらなんとかなる!!なんとかできる!!そんな娘に育っていると、自分では勝手に信じています。

だから、安心するのは難しいかも知れないけど、呑気に見守っていていね。
お母さん、本当にありがとう。ずっとずっと、大好きだよ。 

2022.04.06 小夏

11年前、私は絵描きではなく、会社員として販売の仕事をしていた。東日本大震災の後、末期癌だった母が、一気に弱ってしまった姿を見て、当時の店長と同僚たちに相談して、毎週、実家に帰らせて頂いていて、この日も仕事が終わったら実家に向かう予定だった。

「今日はお客様も少ないから早めに上がって実家に帰って良いよ」というお言葉を店長から頂きながらも、「勤務時間中は働きます!」と時間通り勤務してバックヤードに戻ると、父から「急いで帰宅して」という電話がかかってきた。慌てて普段は使わない新幹線に飛び乗ったけど、時すでに遅し。結局、私は電車の中で訃報を受け取った。

母はお葬式の式次第や弔辞をお願いする人、丁場をお任せする人、BGMまで準備している人だった。我が家は無宗教でお葬式を挙げるので、お坊さんによるお経の時間が式の中にない。母の希望はお経の代わりに子どもたち3人に手紙を読んで欲しい。と言うものだった。だから、私と弟たちは手紙を書いた。でも、この時の手紙は、母に宛てた手紙というよりは、母が父と共に過ごした人生を偲ぶ手紙だったように記憶している。56歳という若さで他界した母。父と過ごした日々は大変なことも沢山あっただろうけれど、それでも「死んでも遺骨は父の側にいたい」と言っていた母。そんな人に巡り会えたから、きっと幸せだったよね?と、私は思いたくて、そんな言葉を綴ったような気がする。(ちょっと泣きすぎて記憶が曖昧だけど…。)

でも、本当に書きたかった手紙はそれじゃなかった。私は母に謝りたいことが残っていたし、母と向き合わないままに、日々を過ごしてしまったことを後悔していた。でも、「生きているうちに謝らないと!」と、思って行動してしまうと、母の死の準備を手伝うようで、私にはどうしても母が生きているうちに話を切り出すことが、できなかった。遺影の写真を選びたいと母に相談された時も、素直に相談に乗ることはできなかった。母の死の準備を手伝ってしまったら、もうすぐ母が死ぬという事実を認めてしまうことになる。私は、どうしてもそれを認めたくなかった。本人が死へ向かって準備をしていても、娘の私には受け入れて、生きているうちに!という気持ちで何かをすることが、できなかった。

今思えば、希望を失わずに、共に生きていくために、ちゃんと向き合って謝ったら良かった。でも、当時の私は、全く余裕がなくて、生きていくだけで精一杯で、それができなかった。全然、向き合えなかった。だから、ずっと後悔していた。あれから11年経ってしまったけど、言葉にしたかった事をようやく言葉にできた。これは母への手紙だけど、私自身の禊なのだろうなぁ。

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石島小夏

娘と共に岩手県釜石市へ遠征する費用にしたいと思います。東北へ年に1回くらい行けたらいいな◎

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石島小夏
COLORAN KORAN代表 Artist & Coach 劇団アンリミテッド(仮)座長 1984年栃木県益子町生まれ、福岡・糸島を中心に東京・神楽坂、そして時々、栃木・益子を家族4人で行ったり来たりしながら様々な人と共に表現活動を続ける日々。