
たゆたう
2025年が明けた。今年の元旦は水曜日。昨年、夏以降、滞っていた毎週水曜日のnote更新を再開してみようかな。ふと、そんな気分になった。
今年のテーマは「たゆたう」。あまり、何も考えずに、直感と直観に身を任せて静かに生きる。そんな一年を送る。
ここ数年、かなり直感的に、直観的に、私は生きれるようになったと、感じていた。だけれども、いつからかそこに、義務感のようなものが混ざり込むようになった。昨年の夏以降、noteの筆が止まりがちだったのも、素直に、ただ、ただ、言葉を紡ぐのではなく、無理に自分を曝け出している気配がしたのだ。ちょっと自分に圧をかけていた、とでも言うのかな。
直感のままに勢いに任せたり、直観をどんどん拡げたり、そうやって自分を奮い立たせて、自分を曝け出した気でいた。けど、無理に自分を引っ張り出していた部分があった気がする。もちろん、素で自分を出せていた部分もあるし、全てに無理があったわけではない。最初は本当に素直に自分をふわっと曝け出していたのだ。そこに「勇気付けられた」とか、「癒やされた」とか、「考えさせられた」とか嬉しいお言葉を頂くうちに、曝け出すことが自分の意志ではなく、誰かのためになっていた。
自分のためだけの文章じゃつまらない。公開する意味もない。だから、文章を外に出すときは、何度も読み返すし、誰か一人でも、楽しんでくれたら、いいな。そんな気持ちで書いている。でも、誰かのために!の比重が大きくなってしまうと、それが義務になっていってしまう感じ。そうやって歪みが生まれると、自分の言葉が独り歩きして、捻じ曲がって伝わっていく。そんな自分が生み出した渦に巻き込まれて、なんだか少し苦しくなってしまった。
文章を書くのは苦しい。そして、怖い。でも、苦しくても、怖くても、書き続けることで見えてくることがある。だから、筆を止めてはいけない。と、昔は思っていた。けれど、ちょっとだけ休憩することにした。そしたら、代わりに人と対面して対話する時間が増えた。対話というよりも他愛もないおしゃべりだったりもする。でも、そうした時間に、私はとても癒やされた。
凄く、凄く、色々と考え過ぎていたんだな。そう気付いた。それは誰かのためではなく、自分を守るためだった。結局、私は自分を曝け出すことが怖くて、鎧を纏っていたのだ。その鎧を無理やり引っ剥がそうとしていたから、ある種の恐怖が私の横には常にあった。だから歪みが生じたのだ。
どうやら、そう、やすやすと鎧は脱げないみたい。でも、もう、鎧を脱がそうと必死になることは止める事にした。ただ、ただ、直感と直観に委ねて、静かに、流れるように、日々を過ごす。でも、流されずに、流れを創る。そんな2025年に今年はなるんじゃないかなぁ。たぶんね!!
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