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春に死にたくなる理由

一. ゆらぎ


希望の気配を感じるたび

小さく絶望を繰り返す。

草木もゆる春。
生命が うごうご蠢く春。
生活の変化の大きい春。
春ならば、この肉体も精神も脱ぎ捨て、新しく産まれなおすことができるような錯覚、を覚える。

けれど、ここはきのうと地続きのきょう。わたしはどこへ行こうが『わたし』のままである。それ以上でも以下でもない。

それは、間違いなく希望です。
そして、同時に絶望でもある。
始まりと終わりがセットであるように、わたしにとって変わらぬ事象。

そこの優しいあなた
春に繊細すぎてはいけないよ。
その激しい揺らぎの中で、こころは疲弊してしまうから。


二. 春に抱かれて

春の陽射し、やわらかな風、木々のざわざわ、鳥たちのさえずり、胸いっぱいに吸い込む新鮮な空気。あまりに心地よいと、しあわせだなあ。このままおわりになればいいのに、とおもう。

ここでの「おもう」=「死にたい」というわけではない。悲観しているわけでもない。ただ「ここでおわれたらしあわせ」なのである。
だがそう「思う人」と、「思わない人」の感覚の隔たりは大きいのかもしれない。

「今、死神が訪ねて来たらすんなり受け入れるだろう」
そう思う瞬間は何度となくあった。
どちらかというとかなしい時よりはしあわせ過ぎる時が多い気がする(今はそれを思いとどまる理由もたくさんある)。
春の夜に、このままネジをひとつひとつ外して狂ってしまえたらいいのに、と思ったことのない人間がどれほどいるのだろうか。


夏は、死ぬには どハッピーすぎる
冬は、死ぬには 寒くて悲しすぎる
秋は、死ぬには 余りにもさみしすぎる

陽だまりの中。

そよかぜに頬を撫でてもらいながら大地の布団にくるまり眠るように死ねたら、わたしは本当にしあわせな人生だったと言える。
…気がする。実際に死の間際にならないとわからないし、醜いほどに生にしがみつくかもしれない。それでも。この「春のしあわせな死」を思うとわたしはうっとりしてしまうのだ。現実とは違い、幻想であるからこその、夢想なのかもしれない。


三. 無力な個体


あまりにも世界に対して無力であるわたくし(ヒト♀)は、とくに揺らぎの大きな春には、意識が内側にむかっていくことを恐れている。過度な繊細さは不必要に苦しさを呼ぶのが目に見えている。

この人間社会のシステムは大方「繊細、ではない人」向けにできているように感じるし、弱者の声は無視されることが多い。立ち向かえる強さをもつものは生き残り、上手くいかない人は脱落していく。それが嫌なら「戦え」と、「勝ち取れ」というシンプルな構造。生物界で弱きものは淘汰されるので、当然なのかもしれない。多様化、多様化と言われていることは確かに希望だが「切実な今日」を生き延びる糧にはならないので、それは別として生き延びる術が必要なのだ。

ここでの「生きやすさ」をある程度確保するには私の場合、自分の性質をひとつひとつ分解し、矯正 或いは上手く共生していく、そのどちらかだと思う。

例えば。敏感すぎるセンサーは出来る限り鈍感に調整していく。そもそも受け取る刺激や情報をなるべく減らしていく。感情に目をやるよりも、身体に意識をむける。目の前の作業をひとつひとつ終わらせていく。こころの針をプラスにもマイナスにも動かしすぎないよう注力し、ルーティン化を目指し淡々と平坦に暮らす術をみにつける。理路整然と頭の中を整理し、ラベルを貼り付けていくことで納得させる。そのラベルはなるべくたくさんの視点を持つ。

できるかできないかは別だが自分なりの工夫を考え、トライする。

それでも、春に吹き荒ぶ嵐の前には無力だったりもする。

おそろしいのは一過性の“衝動”
春は衝動を産み、狂気の背中を軽々と押してくれるのだ。

春に死にたくなるのは「春だから」

今年の春は、サバイヴするだけの蓄えはある。絶望に巻き取られながらも希望は見失わない。見ててくれ。ボロボロになったとしても、また大丈夫になっていくことをわたしは知っているから。
結局ね、少しずつ作り上げてきた大切なお守りが、絶望の淵から掬い上げて護ってくれるから。


四.あとがき

理解できない人にとってはおそらく全く意味のわからない文章たち。
理解できる人には痛いくらいに共感してもらえるのではないかと思います。
そこのやさしいあなた。
共に生き延び、いつかハイタッチをしようね。

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